2024.04.26

さいきん腰の痛みが増してきていて、どうにかしたいとあれこれ試行錯誤していたのだが、意識的かつ部分的に猫背に回帰するといい、という仮説に至った。いまのところいい感じ。僕は長いあいだ猫背を指摘され続けてきた。いまでは反り腰でそれで痛めているのだが、これは猫背を気にするあまりそうなっているのではないか、そう思ったのだ。猫背を改善するために僕おそらく僕は過剰に胸を開き、結果的に肩が背面へと向き過ぎている。意識としては胸を開きすぎず、肩をやや内側に入れて谷間を作るイメージでテンションをかけるほうが、結果として背骨も正立し腰も立ってくる。そんな気がする。

左翼というのは共産主義を夢見るもので、そのステップとして社会主義を容認するものだと思っている。共産主義とは資源が平等に分配される共同体を理想とするもので、社会主義とは分配のための機構として国家を用いるという意味で過渡的なものである。ここにある前提とは、資本とは野放図にしておくと共同体を破壊するものであり、その抑制のために国家というものが要請されるという考え方だ。グローバリズムとは、超国家的な資本主義の氾濫という意味で、抑止力としての国家に対する資本主義の優勢の謂いである。福祉国家とは、その性質上エントロピーの増大を節操なく志向する資本主義に対する調整弁として国家を捉えるものであるから、反グローバリズムと福祉国家の要求というものは、資本主義の抑制という点で一致している。左翼の原理をこのように整理してみると、左翼にとって国家というものは、最終的によりローカルな共同体の自治へと移行することで消失するべきものとしてあるとはいえ、まずは資本主義への対抗手段として活用すべきものとしてあったはずなのだ。

ただし、ここで難しいのは、日本という国の機能不全っぷりである。資本主義という災害への防波堤となるのではなく、困っている人たちをより弱らせるような有害さのほうが目立つ。こうなってくると、左翼はもっとちゃんと国家してくれというところから始めざるを得ない。あるいは、やっぱ国家って最悪なんじゃないかというところまで行くことになる。資本主義への対処として一時的に存在を許すものとして考えていた国家が、資本主義と手を組んでしまった。この三〇年の混乱とは、まさにこの点によって引き起こされている。ソ連崩壊以前は、国家主義という意味では左翼も右翼も共通していたとさえいえる。いまでは、身の回りのマジョリティ集団の利益だけを最大化しようと排外的に振る舞う「愛国的」な右翼のほうが、むしろアンチ資本主義の装置としての国家観を素朴に保持しているようにさえ見えることがある。左翼に愛国があるとすれば、その根拠は民族的なフィクションではなく、資本主義への対抗手段として有益でありうるかという判断に拠るだろう。右翼が「みんな」の範疇を限定するのに対し、左翼は可能な限り拡張しようとするのは、前者が資本主義的な格差を前提としたゼロサムゲームとして経済を捉え、後者が可能な限り平等な資源の分配を目指すものとして経済を捉え直そうとしているという違いからきている。このように経済観の対立であるはずのものが、国家が資本主義への対抗として機能しないどころかそれを増長するものになっている現在、どうしたって国家批判へとスライドしてしまう。こうなってくると、資本主義の全面化としてのグローバリズムに福祉国家を対置するという論法は、すでに失効しかけている。けれども個人的には、福祉国家的なものを手放したくはない。どうしたものかな、というのがよくわからないまま月日だけが経っていく。

帰宅するときょうはなんだかごきげんだね、と言われる。そうかな、なんでだろう。いい天気だったから? 特に理由が見当たらない。なにもなければきげんというのはいいものだ。われわれはつねづね性ごきげん説を唱えている。なんとなく、意味もなく、ごきげんだ。夕食は充実のご飯のおとも祭り。夕食後は『ダンジョン飯』みて、思い立って『スティング』を観る。エーステのポーカーのシーンを観て以来、ずっと観返したかった。小学生のころ母と観て、あまりの面白さとお洒落さにびっくりした。たぶん何度も繰り返し観た。映画の面白さの原体験だと思う。いま観ても格好いい。最低限まで刈り込んだ説明、それでもしっかり伝わる構成、そして緊張と解放、驚きに満ちた二時間の充実。とてもとても好きだな、と思う。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。