お昼は待望のお寿司。昨日から食べたくて、いちど眠りを挟んでしまったらもうこの気分は止んでしまうのではないかと不安だったけど起きてからもちゃんと楽しみだったからよかった。有楽町で本を読んだり、高級チョココロネみたいなやつを食べたりして過ごす。
『ニッポンの書評』の巻末は大澤聡との対談で、こりゃちょうどいいやと思う。次に読むと決めていた『定本 批評メディア論』へと読み進めながら、改めていま文芸時評を行う意味について考えている。時評や書評というのは元祖ファスト教養というか、切り抜き動画的な利便性を期待される商品であるということに最近になってようやく気がついた。そのようなニーズがあるのなら、小説を粗筋に整理するというのは確かに有効だ。僕はどうもこと小説に関してはプロットへの関心が薄く、時評でもそういった部分に限られた字数を割きたいとは思えない。かといって持論を披露したいわけでもないのだが、豊﨑本の定義にのっとるなら〈自分の知識や頭の良さをひけらかすために、対象書籍を利用するような「オレ様書」評〉に堕している可能性は否めない。たとえそのような〈品性下劣〉に陥る危険をおかしてでも、何が書いてあるかではなく、どのように書かれているかを端的にまとめようというのを目指したいなと意固地に思う。けれども、それは時評という商品の生産という意味では二流以下であるはずだ。それにこのような青臭い試行錯誤は車輪の再発明どころか失敗の反復にしかならないだろう。まあそれでいい。町でいちばんの素人という看板はまだ捨てない方がよさそうだった。
たかが賃労働に喜びを見出し、そのやりがいを生きる意味にまで高めてしまう。ただの消費者に過ぎないのにあるジャンルを愛するあまり実感レベルでは「一般」や「大衆」から自らを切り離してしまう。そのようなイタさが人にはある。『会社員の哲学』で揶揄した、飲み屋で経営者目線で語らう賃労働者とは、SNSで為政者目線で意見を述べる庶民、ある業界の状況を熱っぽく語る一般の消費者などとも重なるものであり、問題はむしろそのような倒錯の楽しさや切実さの方であろう。
門外漢としてなにかに夢中になり、自らの足場から遊離した言動を演じてしまうその馬鹿馬鹿しさを徹底すること。それは自覚的なものであれそうでないものであれ真剣なものだろうし、外野から他人の真剣さを嘲笑するのはふつうに下劣である。とはいえ、なんの恥じらいも躊躇いもなくなされる馬鹿ほどみっともなくてつまらないものもないとも思う。馬鹿馬鹿しさを自覚した上で、それにもかかわらず真剣になってしまう。そのような真剣さの側に立ちたい。嘘。真剣さを邪魔しないでいたい。でも見境なく巻き込まれるのはごめんだ。誰かにとって真剣なものも、例えば僕にとっての賃労働のようにダサくて邪魔で仕方のないものであることもある。そのようなものに真剣になれと強いられるのはごめんだ。自分にとって全霊をかけるべきものが、側から見たら寒々しいものでありうること。そのような自覚のないものが嫌いなようだ。小説もそうだ。文芸誌に載っている、換金されたという事実だけで質が担保されるわけではない。小説が小説であるというだけで価値──これは商品的価値にかぎらないというかむしろもっと「人文」的なやつ──があるとでもいうような恥知らずを感知するとゲエッとなってしまう。わざわざいま、商品としてもそこまで派手に流通することを夢見ることもないような形式に拘って制作しなければいけないのか、そのような疑いや躊躇いをどう処しているかが見えないものを読むのはつらい。僕は基本、小説をイタいものだと思っている。
国際フォーラムでエーステ。今年の冬組公演の観劇はこれで三度目で、最後。『A3!』の粗筋は突飛で幼稚で説得力に欠ける。キャラクターの造形も背景もあまりに安直である。それでも。長い時間をかけてそのキャラクチャーといくつもの上演を経てきた俳優たちの演技は、荒唐無稽な物語とキャラクターをたしかに目の前に存在させる。三時間越えの芝居に三度も足を運ぶ。それは面白い話を観にきているからではない。現実離れした、要素だけで言えばぺらぺらの虚構が、観客たちのまなざしと、制作者たちのひたむきさで、日々の現実以上の質感をもってこちらに迫ってくる瞬間に立ち会いたいからだ。繰り返せば繰り返すほど、トンチキな設定に仕込まれた情動だけが意味の枷を飛び越えてこちらにやってくる。だから今回がいちばんべちゃべちゃに泣いた。語られるものがそれだけで自立するほどの強度を持たないからこそ、キャラクターや俳優に固有のコンテクストが前景化する。この話はかなり脇が甘くて可笑しいけれど、いま目の前の板の上に固有の存在が立ち現れ懸命に生きていることは信じることができる。そのような倒錯にこそ、僕は惹きつけられている。カレーを食べて帰った。