2021.02.25(2-p.16)

寒暖差で参っちゃっている。周辺のひとたちはだいたいそうだろう。昼休みにぼんやりしていたら時間がなくなって、てきとうな蕎麦屋チェーンに入ったら、背中合わせのおっさんが、まずい、まずい、と言いながら蕎麦を手繰っていて、なんだよこれ、においがしねえよ、こんなのそばじゃねえよ、とぶつくさ言いながら完食していた。そこまで言うなら食べなければいいし、ちょっと行って倍の値段を出せばまともな蕎麦屋もいくらでもあった。あまりの感じの悪さに後ろからはたいてやろうかという凶暴な気持ちすら湧いたが、こうやって受けたストレスを声に出さずにはいられないのが春というものなのだ。この季節が近づくに連れて、バカヤローッとかついつい声に出しちゃう人たちが街に増える。僕も人通りのない夜道なんかで油断していると、んだよったくやんなっちゃうよなァ、などとぶつぶつ言っていて、しかもそれに気がつくのはふと誰かとすれ違った時だったりするから、僕もまた春の奇人のひとりなのです。

モッセと藤田省三を行ったり来たり。『大衆の国民化』では、祭事を通じたナショナリズムの高揚に与した組織として体操組合と合唱団と射撃協会を挙げていて、この国やアメリカなんかの現状を思い浮かべても、まったくなにも代わり映えがしていないなという気持ちになる。また、これは『藤田省三セレクション』もそうなのだが、新規な政治様式、生活様式という言葉がやけに目について、昨今さかんに言われる生活様式の刷新みたいな標語自体、まったく新しくないということが知れた。そもそもがライフスタイルという陳腐化した言葉、ないしは生活という言葉の無内容化が甚だしい、などと腐しはじめて改めて思うが『プルーストを読む生活』というタイトルは、『知的生き方教室』ばりに皮肉を込めたつもりだったことを思い出す。生活は非常に大事だが、それは人生とか言うよりはまだ内容があるというだけで、生活という言葉に逃げて具体的な日々の必要を考えないで済ますためのアリバイになってしまうくらいだったら、生活などと言わない方がずっといい。

藤田はずっと面白い。論考の序論の抜粋はいちいち本論を読ませてくれ、次はこれを読もう、と思わされるし、エッセイはまた格別だった。愚痴っぽいおっさんの恨み言みたいなのが爽やかでいい。すこしは引用しておこう。たとえば「雄弁と勘定」という題の文章にはこうある。

例えば「知る」ということは一体どういうことであろうか。というようなことを言うとひどく「哲学青年」めいて聞こえるけれども、実は私は「哲学青年」などというものは到底信頼すベからざるものだと思っているのであって、その言葉を聞くと直ぐさま『ガリバー旅行記』における「ラピュータ島」の例の「夢想家」を想い出して、あの「フラッパー」のような「従者」が附いていて時々耳を引張ったりなんかして目を覚まさせて貰わないことには物が見えるようにはならないのではないかとさえ思う程なのである。つまり「哲学青年」という奴は物を見ないで勝手に「物想い」にふけっている者、すなわち物抜きでいるくせに、物について想っていると自分で錯覚している者のことを言う名前ではないか、というのが私の考えなのだ。だから「哲学青年」が何かをやらかそうとするととんでもない事をとんでもない方向に向かってとんでもないやり方でやって了ったり、虚ろな眼付きでウロウロしたりするわけなのである。物が見えないのだから、そうなるのは至極当然であって、その一例をもってしても、「物を見る」ということと「物想い」とが必ずしも同じものではないということは歴然としているのだけれども、「知る」ということも「印し」だとか「記す」だとかいった類語群があること──と私は素人の浅智慧で思っているのだが──を考えて見れば分かるように「物を見る」ことから発していることは極めて明らかであるのではなかろうか。この類語群の意味関連についてはもしはっきり分かったらそのうち「下手の手習い」の結果を報告するつもりだが、さしあたって今ここでは「知る」ということが「物を見る」ということとつながるものであって、それはしばしば「物想い」とはむしろ反対にさえなるのだという点に注目しておけばよいのだ。

市村弘正編『藤田省三セレクション』(平凡社) p.245-247

この辺りの物書きの唯物論的矜持には、フラナリー・オコナーも『秘義と習俗』で同じ様なことを言ってたな、と嬉しくなる。具体的な日々の物を見ないで、たらたら内面にばかり興味を持って、自分で自分に見惚れるように自分のことを書いても「物想い」にしかならない。物への盲目に無自覚な妄想は読むに耐えないものが多い、とこれは藤田やオコナーに言われるたびに僕はギクッとするが、しかし僕もやっぱりそう思う。

藤田はまた、「知る」ことには少なくとも二通りはあるという。「よその国の或る文芸批評家」の言葉としてその二つをこう描く。「宿屋のオカミが或る泊まり客をどのようにもてなすべきかと考える場合に、その客のふところ具合を知る事も大事ではあるが、もっと大事なことは彼の哲学を知ることであり」、「敵と戦おうとする将軍にとって、敵の数を知ることも大切にはちがいないが、しかしもっと大切なことは敵の将軍の哲学を知ることだ」。このように藤田は、数を勘定するような「知る」と、それぞれの信じる「正しさ」とはどんなものであるかを「知る」こととを区別する。特に後者を重視し、“「妨害情報」やそれに対して反射的に生じる「陰謀説的考え」その他内外両面にわたる精神的障害”を退けながらその知に至ることの困難を指摘する。「物想い」だけでは、相手の「正しさ」を「知る」ことはできない。自分だけを見つめていても、他者は全く見えてこないどころか、自分を構成しているものを認識することすら覚束ないのだから。

それでもなお、多くの人が自分のことしか見つめようとしない。それは「成長」だけが価値の尺度になって、勘定の仕方だけ「知って」いればよいような状況にあるからだ、と高度経済成長只中の藤田は嘆くが、好景気と言う物を生まれてこの方知らない僕から見ても、なぜだか状況は好転していないようだった。なぜなんだろう。そのヒントも藤田は提示しているように思える。曰く、近代資本主義のように、金勘定だけが唯一の尺度であるような価値観は、もともと“同じような者が相集まってお互いを初めから「分かり合おう」とするような社会であって、言ってみれば「自明性の領域」を出来るだけ大きくしようとする傾向がいつも内部にはたらいている社会”にとって、馴染みがよかったからなのだと。ホモソーシャルな内輪の中で、「自明性の領域」を拡大してきたのがこれまでの日本の経済成長とかいうやつだったのであって、だからいま各国の企業が包摂やら多様性やらを謳いながらその拡張領域を切り拓いていく流れからこうも痛々しく取り残されてしまうのかもしれない。包摂や多様性を広げていくということは、「自明性の領域」を切り詰め、不確定性の領域をどんどん拡大していくことを意味するのだから。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員。プルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、「家」の別のやり方を模索するZINE『ZINE アカミミ』などを制作。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。