2024.07.09

七夕に天野天街が死んだのだという。いちばん面白い演劇をつくる人がいなくなってしまった。維新派の松本雄吉の死に際して天野天街が送った詩を奥さんが教えてくれる。

ちきゆうは、ゆうきちを、うしなった。ゆうきちは、うちゆう基地に居場所を移し、癌魔線をバーストし、光の速度で、うちゆう模型を作り終え、忌中(きちゆう)の、ちきゆうを遥か借景に、雲膜定規と木星のコンパスで、事象の地平に、星間連絡線を、引き始めた。

なにが、おっぱじまるのだろう。

https://spice.eplus.jp/articles/63051/amp

唐突に終演したと思ったらまた頭から開演するようなことをする劇団なのだから、まだまだ続くのだろう。だから、“なにが、おっぱじまるのだろう”という気持ちでいたい。じっさい小屋入り中の『それいゆ』は予定通り幕が開くらしいので、楽しみに待ちたい。けれども、さみしい。でも、このさみしさは、過去に向いたものでもなく、未来に向けたものでもない。今でもない。かれの演劇を観る僕がつねに感じる“懐かしさ”と似ている。この劇作家の死を思うことは、この劇作家のつくるものを考えることとどうしても似てきてしまう。

(…)結局、文章がどうこうではなくて、文字自体が日本語だけどオブジェのようなもので、それが1個ずつ屹立しているような感覚が好きなんです。

僕は、稲垣足穂が言っている「宇宙的郷愁」──つまり、過去へのベクトルでも未来でもなく、今でもない“懐かしさ”みたいなものが表現されているものに惹かれるんです。

“宇宙的郷愁”を操る奇想のアーティスト、天野天街https://performingarts.jpf.go.jp/article/7122/

言語を、オブジェとして扱う。その手つきにいつだって興奮した。それは文字通り「文字」を物質として舞台にあげてしまうことでもあった。そのように扱われる言語がもともと伝達内容として持っていた抽象概念、たとえば無や有、たとえば時間、たとえば私性というものも、つられてじつに即物的なもののように感じられ、それが積み木遊びのように配列されることで、不動であるとか、一方向にしか動かないと思われていたそれらの概念が自在に遊動するかのような気分がもたらされる。

言葉をある意味の“物質”として置く、つまり、言語というものの意味とかそういうものは置いておいて物質として捉えれば、他のものと“等価”でしょ。そういう“等価”なものとして全部を繋げてしまう感覚があります。

私たちが認識する、すごく遠いものと近いものがあるとしたら、遠いものも近いものも繋がっている、通底しているという、何か見栄えを一緒にするというところにちょっとだけ近づける。

同インタビュー

そのようにして、あらゆる概念が言語を介して等価に扱われる場として立ち上げられる演劇は、あらゆるものの差異を際立たせると同時に、ふだんであれば接続しそうにもないもの同士を、隔てる距離を軽やかに無視して関連づけてしまう。非常に表層的な、音や姿が似ているという根拠だけで。二者はあっさり関係する。ばらばらだからこそ、どうとでも繋がれる。その鮮やかな驚きは、この世界の縮尺に対する感覚をひろげるだろう。

(…)バラバラに見えているものがくっついた瞬間に、ちょっと爽快感を覚える。つまり万物照応(最大なる世界は最小なる世界と影響しあい、相似するという神秘主義の概念)というものですね、本当にやりたいことは。本当に何の関係もないようなものが全て照応している。でもそれは認識しているものでしかないから、認識以外のところでそういうものがぼんやり見えるような“ある設定”とか‥‥。こういう言葉で言えないようなことを説明しようとすると難しくなるんです(笑)。

同インタビュー

天野天街の演劇を目撃した観客の目は、“ちきゆうを遥か借景に、雲膜定規と木星のコンパスで、事象の地平に、星間連絡線を、引き始め”る。軽薄に伸び縮みするものさしをあてられた世界に、始点も終点もない。ただ万物が照応しあっている。そのようなものとして見える。

(…)無から有になってまた無になるという感覚や、演劇という現象が始まって終わるということはどういうことなのか。始まる前は一体どうなっていて、終わった後はどうなるのか、というところにとても興味がある。だから始まりをブラしたいし、終わりもブラしたいわけです。

同インタビュー

劇場で、客席に大人しく座っていながらも、ブラウン運動のような、つねに激しく不規則に動き回るものを感受する体ができあがっている。気がつけば、今もそのような体でいる。すでにこの目は、体は、かの劇作家の操作を経ている。日々の労働や生活のただなかでは見失いがちではあるが、すでに引かれ始めている“星間連絡線”を辿る目は、すでにあるはずだった。たまには目を凝らし、言葉をモノとして弄びながら、今でもここでもいつかでもない地平で、始まりも終わりもない状況をただ懐かしむのだろう。そのような懐かしさを求めて、また劇場に身を浸すのだと思う。これからも、楽しみにしています。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。