2021.02.26(2-p.16)

『CCC』のプレイ時間はきょうで38時間。ようやく終わりが見えてきた。『EXTRA』が20時間ちょっとだったはずだから、同じハードとは思えないほどのグラフィックの改善やボイスの搭載だけでも凄いのにそれのみならず、ボリュームとしても凄いということで、こういうハードの制約をなぜだかどんどん拡張していくソフトの技術みたいなものが僕はやっぱり驚くほかないと言うか、どういうこと? となる。しかしPSP ってもう何年前の機体なんだろう。よくちゃんと動いてくれている。ハードもすごいよ。さっき盛大に落っことして電池がバーンっと飛んでいって、だいぶ膨れてたからかなり老体に鞭打って働いてくれてるんだと思う。こうしてゲームに耽溺していると、読書はもちろん疎かにはならず、むしろゲームより面白かったり没頭できたりする本かどうかをシビアに吟味するようになっていく。僕はそれはいいことだと思うし、僕は別に読書家として自分をアイデンティファイというかカテゴライズというか、カタカナにするまでもない、同一化というか類型化というかするつもりもなくて、ゲームでも音楽でも映画でもなんでも楽しんでいたかった。『大衆の国民化』を読み終え。最後のくだりが格好いいし、いまでも当然に切実だった。

(…)人間性に不可欠なものと見なされる全体への根源的憧れと具象化の欲求を今日もなお、相当数の人々が共有しているのかもしれない。いまだに、生命の全体性へのあこがれというものは存在し、それは神話とシンボルに密接に結びついている。政治と生活とは互いに浸透するはずであり、それはあらゆる生活様式が政治化することを意味している。文学、芸術、建築、そして我々の環境すらも、政治的態度の表象と見なされる。議会制統治がうまく機能していないように見えるとき、政治を包み込む全体性としての文化の理念に、人は回帰しがちである。そのような環境下では、現実世界の圧力が文学的想像力に重くのしかかり、芸術的創造力が抑えられて、政治の証しへと変形されるが、それを気にする人はいなくなる。生活の全局面の政治化としてしばしば非難されることこそ、現実には歴史の底流なのである。そこでは常に、多元主義、つまり政治を生活のほかの局面から切り離すことが非難されてきた。この政治と生活の切り離しを象徴する代議制統治が破綻の危機にあるとき、人々は再び、完全に整えられた安息の地を望む。そこでは、美しく喜びを与えるものと、実用的なもの、必要なものとは分かたれるべきではないとされている。どれほど真の人間性から外れていたとしても、「新しい政治」はそうした安息の地をもたらしてきたのである。

ジョージ・L・モッセ『大衆の国民化』佐藤卓己・佐藤八寿子訳(ちくま学芸文庫)p.350-351

ナチ政権において絶頂を迎えた神話とシンボルによる熱狂という政治体は、ほかならぬナチによって時代遅れの、忌避すべきものとなったかのように見える。それでもなお、人々が孤立していると感じ、なにかホリスティックな一体感を希求してしまう心性が変わらずあるのだから、神話もシンボルもやはりいまだ求められている。ダメダメな人たちに私物化される様を見て、選挙による民主主義への失望は来るところまで来ている。直接行動を裏打ちする神話と、直接行動を媒介するためのシンボルを僕たちは心底待望してはいないか。グレタさんとか、まさしくそういうモノとして祭り上げられてしまった感じがすごくある。モッセの言う通り、「過去の歴史はコンテンポラリー──現代のもの──である」。

それでまたコンテンポラリーな戦後へと藤田に案内してもらうと、隠れん坊の話を始める。隠れん坊をこんなに格好良く書ける人いる? と楽しくなる導入からしていい。

たしかに、世界中に自動車を売りまくって稼いでいる国なのだから、その国内が自動車で満盃になっていてもそれは仕方のないことであるのかもしれない。販売合戦なるものが、どんなに荒んだものを内に含まざるをえないかということを、日常生活の傍らで多少とも垣間見ている者としては、世界中で繰り拡げている日本の販売作戦が品位のある公正な競争行動だなどとは到底信じ難いから、すさまじい販売作戦で稼ぎまくっている国ならそれ相当の天罰を蒙っても仕方がないとも思いはする。何かを獲ることは別の何かを失うことだという費用の法則から言っても、「新重商主義」の荒稼ぎが払うべき犠牲はかなり大きいものになるのが当然であって、「成長経済」によって喪われたものは広く社会の各分野にわたって相当に深刻なものがあるはずである。入って来た金の額の増減にだけ気を取られないで、失われたものについての自覚をしっかりと持っていないと、金もうけだけは必要以上にしたけれどもその代り生き方についての価値や規準は無くなってしまって、何のための経済活動なのかその訳が分らなくなりかねない。それが新重商主義のニヒリズムなのである。そして生き方についての精神的骨格が無くなった社会状態は十分な意味ではもはや社会とは言い難い。一定の様式を持った生活の組織体ではないからである。それはむしろ社会の解体状態と言った方がいい姿なのである。そうして、そういう時にこそ得てして社会の外側から「生活に目標を」与えてやろうという素振りをもって「国家のため」という紛いの「価値」が横行し始める。そうなると社会の再生はひどく難しくなる。国家とは機械的な装置なのだから、「国家のために生活する」ということは即ち生活が機械的装置の末端機関と化すことを意味するだけである。生活組織と生活様式の独立性はここでは崩れ去る他ない。

市村弘正編『藤田省三セレクション』(平凡社) p.261-262

たとえば買い物だって政治だ、というスローガンは、ある程度の効果性をもって妥当だといってもいい部分もあるとは思うけれど、そうやって安易に生活を外化しすぎることは、生活を国家の手段にまで貶めることになりかねない。

保坂和志もなんか似たようなことを言っていたが何に書いていたか全く思い出せないが、たしか趣味もなく労働だけしているような会社員に限ってすぐに「人生とは」とか大上段に構えだす。人生以外に考えることがないのだからそういうことになる。もっと今週の新譜だとか、推しの供給だとか、古代文明についての文献を検証するだとか、そういう用事を持てば持つだけ考えることも増えるのだから、人生なんか考える暇はない、たとえば文学もそういう人生とか安易に誰でも考え出せる割に意味のないものにかまけ過ぎずに済ますためにあるんだ、みたいなことを書いていたはずなんだけど僕の中でだいぶ僕好みに変容している気がしてならない。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員。プルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、「家」の別のやり方を模索するZINE『ZINE アカミミ』などを制作。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。