リュクおろしてコート脱いでズボン下げるという工程が面倒になって、外出時にトイレを先送りしがちになる季節がやってきた。カウンター席でのご飯も面倒。コートってなんで脱ぐとあんなに大きくなるんだろう。
昼に対面で一件楽しげな打ち合わせ。夕食は早めにつくる。『mg.』で読んだレシピで唐揚げ。おいしい。夜はオンラインで録音。じぶんで場を回すというのは難しい。もっと気兼ねなくお喋りしてもらえるような場をつくることはできたはずだったなあとぐるぐる反省しながら、あれこれと物入りなので買い物の計画を奥さんから入力され、へっぽこに出力する。昼も夜もおおむね文フリの話をしていた。行く気が失せていたけれど、行くかもしれない。行くのだろうか。暖房器具や、そのほかあれこれ。何を買い、何を買わないのか。考えることがたくさんあるような、こちらの考えるキャパが極小なだけのような、小さな混乱をきたす。
昼と夜とで両方ほとんどはじめましてからのやり取りを立ち上げるというのをやると流石に疲れる。人と会えば会うほど回復するような気がしていたけれど嘘だ。いや、会えば会うほど回復する部分もあるが、くたびれる部分もある。楽しくても疲れる。このことが長年納得できないままだった。楽しくても、疲れる。そうだったのか。楽しさの予感でさえ疲れる。幸福の予期は現在の安定を損ねるものだ。猫をお迎えする機運が俄かに高まってきており、そわそわ情緒がだいぶ不安定になっているのだった。人間は拾ってこられたことあるけど、放っておいてもご飯は食べるし、家賃も稼いできてくれるし、手がかからないというか勝手にやってくれるけど、猫とか人外の幸福は、おおむねわれわれ同居人間に依存せざるをえない。猫は、われわれが幸せにしてやらねばならない。なるほど、これが、責任感というやつだろうか。ひどく緊張している。緊張していないで、やるべきことをやるべきだった。トイレ買うとか。そういうこと。