七時。猫起き。代わりに読む人の新刊、青木淳悟『憧れの世界——翻案小説を書く』をソファ横の棚にセットしておいたので、猫を膝に乗せつつ読み出す。『耳をすませば』という漫画作品をアニメーションへと翻案したジブリの仕事を、さらに小説へと翻案する。一文一文に、アニメーターの表現=色彩、運動、構図……をいかにして文章表現へと翻していくかの苦心が滲み、「小説」になる箇所にこそ安易な失敗がある。
まず思ったのは自作『『ベイブ』論——あるいは「父」についての序論』のこと。これは児童文学の翻案である映画を逐語訳するようにしてエッセイへと変換する試みであり、個人的最高傑作なのだが、なんと形容していい本かわからずにいた。先行者を見つけて励まされた。
書かれた時期としては先行する「私、高校には行かない。」は、試みと方法が直裁であるぶん、青木淳悟という稀代の作家の執筆過程をリバースエンジニアリングするような楽しさがある。他の傑作の超然としたさまは、このような暗中模索の末にもたらされるのか!という感動。読み書く人が、より注意深く読むとはどういうことかを点検したいとき、かなり良質なテキストとして参照できると思う。文章の流れを断ち切らないまま、さりげなく時間や空間が切り替わる処理にこそ、アニメーションのリズムを感じた。テクスチャーの統一によってシームレスに感じられてしまう場面転換のありよう。しかし、この作品は成功しているところよりも、失敗しているところにこそ滋味がある。
しかし、のんべんだらりとした青春の退屈の、そのただなかにいるときの手触りが確かにあるように感じられる小説で、そういう意味ではやはり見事なのだ。久しぶりにベッドに寝転がって本を読んだ。高校生の頃そうしていたように。午前中いっぱい、二度寝を挟み午後まで、一日さえ耐え難いほど長く、持て余しているような気分で。
朝に生活の起点が寄っていくと、この自分というものの持続が鬱陶しくなる。なるべくこの個我を忘れていたいという思いから映画などに没入したくもなる。それでも今日は本を読んでいた。『憧れの世界』から『視霊者の夢』へ。
買ったマイクをめいっぱい活用したく、音声に対応してまばたきや口を開け閉めする簡易なアニメーションを自作したくなる。あれこれ調べ、Macで使えるソフトがかなり少なく、三つくらい試してみたがうまく動作しなかった。最終的にPNGtuber という言葉を獲得し、これで検索を進めていくと見つかったveadotube mini というソフトでとうとう作れる。素材はルドンの背中からお腹にかけての写真をトリミングして、毛玉ちゃんというアバターを制作した。かなり可愛い。しかし、配信や録画をする仮想スタジオみたいなやつで、いま使っているMacBook のスペックで動かせそうなものが見当たらず、けっきょくただ毛玉ちゃんをデスクトップでぱくぱく動かせるようになっただけだった。デジタルなゴミの制作。楽しい。奥さんに見てもらうと、怖い、夢に出てきそう、と好評だった。