ここ数日は本が読めていない。こういう時は偶然に身を任せると具合が良くて、図書館で宮野真生子/磯野真穂『急に具合が悪くなる』の順番がようやく回ってきたのでこれを読むことにしてみた。行きの電車ですっかり掴まれて、夜までかけて読み終えてしまった。昨年頻繁に見かけた書名で、相変わらずの天邪鬼で読まずにいたが、何度も思い知るがみんなが良いというものは良いのだ。素直に波に乗れば良かったし、しかし波に乗らずに偶然のタイミングに任せたことがこれほど似合う本もなかった。予約していたことも忘れるほどの予約数にちょうどよさを感じて図書館で取り寄せることにした本書は、すっかり必ず買う本になった。これもまた、偶然を運命として書き換えるささやかな跳躍の一つかもしれない。インスタントに読み、言語化し、消費する、そういう読み方はしたくない本で、かといって言葉にならないと逃げ腰になるのも不誠実なように思える本で、何度も何度も、それこそ誰かから届けられた手紙のように反芻し、じっくりと問いを練り上げ応えていくための本だと思う。あらゆる言葉は応答を求めている、そんなことを久しぶりに思った。応えなければ、という感覚。僕は確実に何かを受け取ってしまったということだ。
Twitter で原稿依頼をください、ポッドキャストにお便りをくださいと書いたらすぐに両方いただいて、こんなに打てば響くのか、と感心した。他者と出会い、あたらしいなにかが生起する瞬間を僕は何度も追い求めるのだろうし、ひとつひとつの生成をなるべく連ねていきたいと願い工夫する。最近の鬱屈はそうした生成の乏しさだったのかもしれない。もっと他者に開き、晒され、思いも掛けない運動の起こるところにいたい。もっと話し、読み、書きたい。