2026.01.14

「文字ではなんとでも書ける」ことと、「肉声でなんでもは言えない」ということの違いをちゃんと考えてるかどうかが大事。これは前者を超越的、後者を内在的とあるていど置き換えてもいい。

ぜんぶが「コミュニケーション能力(弁舌・笑顔!)」になっちゃう息苦しさに対して、読んで書くと自分でこんなことまでやれちゃうんだ!というところに開放感や助かる気持ちがあるのは、文字優位人間として共感できるところがあるし、だからこそこういう場でうまくいかないひとを見ていると「わかるよー! がんばれー!」という気持ちも湧かなくもない。それどころかおれが「オタクに優しいギャル1」として代わりにそこに立ちたいとさえ思う。

そんなことを話していたら、シャーク鮫くんが以下のようなツイートを教えてくれた。

やっぱそういうことなんだよな。いや、ちがうかも、わかんないけどいいねー、じゃなくて、わかるよ、つまりこういうことっしょ、とやりたいわけだから「オタク気質のギャル」のほうが適しているじゃないか2

超越(頭でっかち)と内在(当事者、現場)のバランスを、超越の側に偏ったりしつつ取りうるのは書き言葉の方で、話し言葉だと現場で生身で話すわけだからどうしたって内在に偏る。そうすると、声がデカく口が上手いやつが圧勝するだけになる。こうなると超越っぽい側の人たちはルサンチマンにしか行き先がなくなる。

このルサンチマンは肯定できない。なぜならこれって震災以降Twitter人口が増えて、相対的に世間並みの「まとも」さを持った時期に、先住のオタクたちが悪い古インターネットマナーに固執して起こした反動とも似ているから。ルサンチマンには、いやいや、もう状況として公共でちゃんと振る舞わなきゃいけなくなったんだからちゃんとしようよ、と嗜めたくなる気持ちも半分以上わかる。とはいえ、ちゃんとすることよりもちゃんとしないで極端になっちゃう人に、極論やめなよ普通に話なよというのも酷で、そうした極論から果実をもぎとり親しみのある形で提供する、卸の役割が別で必要だ。これこそが、ここでいう「オタク気質のギャル」である。僕はこれにならなければいけない。

  1. 森脇透青の「抽象性のある駆り立て方」というのを、弁舌や笑顔の感じの良さを持たないものの擁護として受け取ったのだけれど、それを笑顔で弁舌さわやかに口頭でもちゃんとやる人に仮に与えてみた呼称。 https://x.com/satodex/status/2008035272894960111?s=20 ↩︎
  2. 奥さんに指摘されて気がついたことをさも自分の気がついたことのようにここに加筆している。ずるーい。 ↩︎

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。