2026.03.06

やさしくて、うまくいかない、弱ってる人たちのために開発されてきた言葉遣いが、うまくやれている強い人の足を引っ張ったり叩きのめす道具へと次第に変容していき、結果として自分らとは別種のうまくいかなさ、弱さをも追い立ててしまうようになった結果、多くのやさしい人たちから敬遠されるようになり、かつてうまくいかないやさしい人たちを励ますものだった道具たちがみるみる失効していく。そのような事態はこの数年ずっと進行していたけれど、いよいよ誰もが無視できないほどに状況が極まったというのが先の選挙だったりしたのだろう。いま、うまくいかない、弱っている人たちの側に立つとはどういうことでありえるのか、それが誰もわからなくなっている。

かつてうまくいかず、弱っている人たちは、この声を聞いて欲しい、届けよ、と願っていた。そしていまは、それらの声が押し殺されたわけではなく、むしろ、届きすぎてしまうことによって以前うまくいかず弱いまま、声だけは受け取られすぎていて、うまくいっているかのように——声を届けるということだけでいえばたしかに「うまくいっている」のだ——見えている。いや、見かけだけの話ではない。問題は声が、困っている当人の救済ではなく、その日見かけた気に食わないやつへの私刑を行うものとしてしか機能していないことだろう。

先週くらいに批評家の中村拓哉がツイートしていたことにも通じる。

面と向かってそれいったら喧嘩になっちゃうよ、ということを「書き言葉」だと言えてしまうこと。そしてそれは放ったが最後、記録され、掲示され、人の行動を規定するという、文字のもつ力を自他ともに及ぼすこと。《願い通り「声が聞かれた」とき》の言葉遣いを、たぶんまだ多くの人は発見できておらず、少なくない人たちが「声が聞かれない」ものとしての振る舞いを繰り返すほかなく——それしか言葉を知らない——袋小路に陥っているのではないか。

たぶん少なくない人たちのうちの多くの人たちは「書き言葉」なんて、じっさいにその肉体を苦しめている現場で「話し言葉」を発することはできない代わりに憂さを晴らすために吐き出す程度のものなのだろう。「書き言葉」を信じられずに、それでも「話し言葉」の居場所を持てず、仕方なくしょぼい代替手段として「話すように書く」ことで発散する、そのような「書き言葉」が、当人たちの思ってもみないところまで届き、知らない誰かの「書き言葉」を蝕み、そうやってお互いに極限まで似ていき、似ていない人たちとの「話しかた」をすっかり忘れてしまったとしたら?

そもそも「書き言葉」でなあなあにするというのは高度な技術が必要なのだ。それはただみんなと同じように「話すように書く」だけでは、すぐに「おれたち」と「あいつら」の区別を先鋭化させてしまう。

そんなことを考えたりしながら御徒町に向かう。学術バーQで「21世紀のことばを考える夜 -AIと災厄に呑まれる「書き言葉」-」。《WEB・SNS・AIの産業化が進むにつれ、私たちが日常で使う「ことば」も多くの変化を経験しています。かつて「打ちことば(texting)」と名づけられた「話すように書く言葉」は、学術研究や芸術表現、ビジネスのあり方をどう変えたでしょうか。次の四半世紀に、新しいことば》はどんなの? みたいな感じ。ここまで書いてきたこととは関係ないような、しかし関係あるような話ができた。笠井康平さんとしっかりお話しするのは初めてで楽しみだった。イベント終了後、連れてきていた奥さんが実家からもらってきてくれた笠井康平(そっくりさん)をおもむろに取り出し、ほんものの笠井康平さんがサインを書いてくれてるところを覗き込むうちの笠井康平(そっくりさん)の写真を撮らせてもらう。本人(羊)はもっと小型らしい。そっくりさんは「想像の3倍サイズでした」とのこと。

こう言ってもらえて嬉しいかぎり。恥ずかしげのないストレートな質問に、衒いなく応えていただけて嬉しかった。今日のイベントは贅沢な笠井康平入門でもあった。というか、やっぱり書き文字だけだと怖いから、こうして話すことでようやくテキストともやり取り可能な気がしてくる。身も蓋もないが、もっとも面白いテキストとは友達や好きな人の書いたもの、だったりするのだろう。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。