2026.03.09

きょう配信の「雑談・オブ・ザ・デッド」。わりと自分がポッドキャストでやりたいことができてて好きだな。朝から何回も繰り返し聴きながら自画自賛する。まず、コンテンツ語りではなく、同じ映画を観た後、カフェで興奮気味にやるような感想を話す。それは、作品を利活用するみたいなナメた態度ではない形で愛でるみたいなことだ。ラフに、でもちゃんと批評的な目を差し出し合うというのも含め、これはもともと「雑談・オブ・ザ・デッド」でやっていたことではある。今回はさらにRyotaさんの善良さが存分に滲み出ており、なんかすごくいい感じなのだ。散歩がいいんだろうな。

今回は比喩じゃなく文字通りなのだが、散歩のようにコースを決めずに寄り道したり気ままにやっており、なにより、なんか喋ってる人が機嫌よさそうでかわいい。最後はごはんを食べるところまであるのもいいよね。お店での振る舞いや、話のドライブのかかり方など、個別具体的な、でもみんながやってるはずの日々の振る舞いのサンプルとしても使えなくもない。

ここまで書いてみて、なんでポッドキャストの台本や編集が苦手なんだろうというのがはっきりした気もする。この前のLifeで話したみたいに、おしゃべりのショーアップやアスリート化は一種の異常事態であり、ふだんの行いの参考にはあまりならない。ふだんの大したことない振る舞いをそのまま出すことで、こんなもんだよ、というのを示したいというか、それをすることで書きものの人格とのバランスをとってるようなところがある。ラジオやイベントは明確に書きもの人格のほうでやってる。書く方は日記も寄稿もあんま変わらんくせに、話し言葉にはモードの演じ分けが意識的にあるのは、やはり話し言葉じたいが状況や環境に依存するものだからだよなーというのも考える。個別具体的で、汎用性がないからこそ、こういうのもあるか、とか、こんなもんだよな、という水平的で地味な密猟が起こりやすい。そういうものとして僕はポッドキャストを捉えているようだった。画像がないからこそ気取らない日常の所作がちらっと見える。こういう注文の仕方もあるのかーとか、こいつら料理がサーブされるたびにありがとうございまーすって言ってるな、とか、そういうのが結構大事というか、一挙手一投足すべてが不確かでなにもわからなかった思春期の時期に僕が一番欲しかったのはそういうものだった。気取っておらず、でも親戚でも友達でもないちょっと遠い誰かの身のこなし。いやまあ、思春期の人にまでこのポッドキャストが届くとは思えないが。

夜はさめない社交。鮫くんと買い物したときに手に入れたお洒落をして準備はばっちし。富山からタムラさんが来てくれて、「かんさつマガジン」の行商を始めるので張り切って営業してしっかり完売したので嬉しい。月曜だから静かめかなと思っていたのにものすごい人入りで、月曜から社交しようという人たちの熱量はそりゃ高くてたいへんだった。来てくれた人に、どうすればちょうど良くなると思う?と聞いて回る。僕としてはもうすこし落ち着いて話せる場になってもいいのだが、なんだかんだでみんなこの場を上手に使ってくれている感じもあるからこれでいいのかもしれない。みんなが楽しいならなによりだよ。じっさい僕も楽しい。今晩は奥さんが来てくれたので一緒に帰る。道中、疲れた疲れたあー疲れたと繰り返していた。とびきり眠たい。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。