まず、人間には、社交性、すなわち、「社会に足を踏み入れようとする性癖」、あるいは、「自己を社会化しようとする傾向性」が備わっている(Ⅷ20)。しかし、他方で人間には、非社交性、すなわち、「自己を個別化する(孤立させる)大きな性癖」、あるいは、「すべてを自分の意のままにしようとする非社交的性質」も備わっているのである(Ⅷ21)。すなわち、非社交性とは自己の個人化(vereinzelnen)の原理であり、社交性は自己の社会化(vergesellschaften)の原理である。人間は生まれながらにしてもっぱら社交的であるわけでもなければ、もっぱら非社交的であるわけでもない。我々はその両方を併せ持っているというのが、カントのユニークな洞察である。 非社交的社交性が根深い問題であるのは、非社交的抵抗が相手の側からも予期されるからである。我々は孤独に耐えることはできず、他者との社交を求める。しかし、そこでは同時に他者からの抵抗もまた現れてくる。というのも、我々は自分の内に非社交性、すなわちすべてを自分の好きにしてやろうという傾向性を感じるのであるが、これは他者の方でも同様であるからである。我々の社交というものは、他者に耐えることができないが、かといって他者から離れることもできない、という緊張関係の上に成り立っている。
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カントは、この非社交的社交性によって各人は自己の素質をこぞって開化し、文化(Kultur)を形成するに至る、と述べる。つまり、人間はまさに相手に対して優位に立とうとして、いわば「自分磨き」に勤しむことになる。カントは、この非社交性はそれ自体では愛すべきものではないと認めつつも、これがなければ人間のあらゆる才能は埋没したままになっただろうと指摘する。もし非社交的性質が人間になければ、人間は争いのない牧歌的生活を営み、その素質は覚醒させられることはなかったはずである。非社交性なき社会は思考可能であるが、そこでは文化の発展は見込まれないのである。その場合、人間は家畜と同じ価値しかもたない。むしろ個人は闘争心によって自己発展に努めるようになる。さらに、人間には、名誉欲(Ehrsucht)・所有欲(Habsucht)・支配欲(Herrschsucht)という非社交的性質があるが、これらなしには、文化は実現されず、人間の自然素質は眠ったままであっただろう(Ⅷ21)。これらはすべて他者を前提とするものであり、程度や方法は異なるとしても、他者に向かう非社交的性質なのである。しかし、それでもこれらの非社交的性質によって文化への第一歩が踏み出される。
髙木裕貴『カントの道徳的人間学 性格と社交の倫理学』(京都大学学術出版会) pp.168-169
髙木はカントの社交論として「談話の順序」と「談話の規則」を抽出する。「談話の順序」は世間話、議論、冗談という三段階を踏む。そして「談話の規則」とは①参加者がみな興味をもち各人の視点から発言ができること。②瞬間的な休止だけで沈黙が起こらないようにすること。③不必要に話題を変えないこと。④論争において真面目になりすぎて頑固になることをなるべく避けること。⑤やむなく真面目に論争しなければならない場合には、相互の尊敬と好意をつねに現すこと。以上の五つである。気安く誰でも自分ごととして話すことができる話題で、絶え間なくわいわい盛り上がり、自然な流れで話題が転換していくのがいい。しかしいつまでも当たり障りない「世間話」ばかりだとつまらないので、次第に調子を変えて「議論」へと移ってみるのがいいだろう。しかし、ここで自説を完全に正当化しようというような頑固さを発揮してはいけない。あくまで《大事なのは、会話の内容(Inhalt)ではなく、語調(Ton)である1》。真剣に論を争うにせよ、つねに相手へのリスペクトを表現すること。そして、いよいよ危なそうだなというときには「冗談」へと脱線させて笑いで座を締めることが求められるわけだ。
語調つまりトーンとは、マナーに基づく調律の規則である。場のマナーに基づいた調子の自律を礼儀作法という。カントは幻想を欺瞞と錯覚とに二分しているという。前者はそれが仮象にすぎないと判明すると失効してしまうものであるが、後者はそれが実在しないと知っていてもなお《我々を惑わし、我々に影響を与える2》。社交における礼儀作法は、錯覚である。そこで演じられる好意や尊敬がその場の「お約束」としての振る舞いに過ぎないとわかっていてもなお、有効なのである。カントは、このような錯覚によって、礼儀作法を演技する当人だけでなく、それを受け取る他者もまたマナーとトーンを内在化させていくことを期待しているようだ。社交という演技の場において、人間は礼儀作法に則った感じのいい演技がもたらす錯覚によって、だんだんとほんとうにいい人間になりうるのだと。
ここで本から脱線して考えていたのは、近年カスタマーハラスメントと名指されて制度化も進んできている「困った客」のことである。かれらは《名誉欲(Ehrsucht)・所有欲(Habsucht)・支配欲(Herrschsucht)という非社交的性質》で曇らされた目で礼儀作法を読んでしまう。だから、演技者が自らの非社交的性質を抑制し律するための演技を、観客の《非社交性、すなわちすべてを自分の好きにしてやろうという傾向性》を満足させるための手段であると勘違いしてしまう。つまり、錯覚のネガティブな側面である。
非社交性というのは卓越性を示すために他者を利用する傾向性であるが、これがあるからこそ《相手に対して優位に立とうとして、いわば「自分磨き」に勤しむことになる》というポジティブな効果もある。しかし、「自分磨き」を怠ったまま、ただ相手が社交的に好意と尊敬を示してくれていることを根拠に、相手よりも優位に立っているという錯覚を抱いてしまうような「困った客」は、好意と尊敬の演技に前提とされている相互性を履き違えている。このような「困った客」はたしかに脅威であるけれど、あらゆる客をまずは「困った客」であることを前提にするような性悪説に立ってしまうと、そもそも社交の礼儀作法は成り立たなくなる。
本音を建前に優越させるような思考形式は、礼儀作法を可能にする他者に対する最低限の信頼を損ねる。知らない人は皆「困った客」であると見做すことは、好意を示すマナーやトーンはリスクであるという結論に至ってしまうだろう。そのような相互不信を打破するためにこそ僕はいまこそ社交やと言い募っているのであるが、このあたりはつねに難しく、すぐに循環論法に陥りがちだ。
《非社交的社交性が根深い問題であるのは、非社交的抵抗が相手の側からも予期されるからである。我々は孤独に耐えることはできず、他者との社交を求める。しかし、そこでは同時に他者からの抵抗もまた現れてくる。というのも、我々は自分の内に非社交性、すなわちすべてを自分の好きにしてやろうという傾向性を感じるのであるが、これは他者の方でも同様であるからである。我々の社交というものは、他者に耐えることができないが、かといって他者から離れることもできない、という緊張関係の上に成り立っている》。ここで抵抗とあるのは、話しかけて拒絶されうるというだけではなく、話しかけたら過剰に要求されてしまいかねないということでもある。《すべてを自分の好きにしてやろうという傾向性》としての非社交的社交性は、毒にも薬にもなるファルマコンであるのだが、イメージが「困った客」つまり毒性の側につよく傾き過ぎているのかもしれない。薬としての側面を強調するためになにができるのか。僕はここにこそ議論を成立させるトーンについての問いがあるのだと考えている。それをこれまでは粗雑に「喧嘩しようや」と言い表してきたが、やはりそれだけでは足りないのだ。何が足りていなかったのか。冗談である。
好意や尊敬を基盤とした議論、それがシリアスになり過ぎない緩衝材としての冗談。これがまずある。そのうえで、ここでなされる冗談とは、そもそもここで演じている好意や尊敬が上辺だけのものにすぎないことをお互い了承しているよね、というメタレベルの好意や尊敬の表明の謂であるのではないだろうか。幻想に過ぎないとわかったうえでお互いに錯覚しあって保守する心地いい幻想。社交も演技も、嘘だとわかっているけれど本気で信じてみる嘘であるからこそ好ましいのだと僕は考えている。どうせ嘘だとさめてしまうのも野暮だけれど、まるきり本気だと信じ込んでしまうのも野暮なのだ。
人間が大好きさんのnoteを参考に今期のアニメを五、六作見ていく。今期は『ガンバレ!中村くん!!』がいい感じな気がする。線の感じと塗りの平面っぽさが絵のよさをひきたてつつ、遠近のメリハリで動きが楽しい。寝る前は『プロジェクト・ヘイル・メアリー』。上巻の四割くらいが読み終えられた。これはけっこう音読が楽しい本だなと思う。計算するところとか、推論を重ねていくダイナミズムは声に出してみるとよりわくわくする。奥さんは、昏睡状態になっていた理由を知ってしまってからだとつらい気持ちになるね、と言った。
