アニメがあまりに贅沢な『とんがり帽子のアトリエ』が今日まで全巻無料で読めるというので奥さんと示し合わせて夢中で読んだ。すげえ面白い。ヒロアカじゃん、と何度も思うが、ヒロアカの「個性」がそれこそ先天的なもので在るのに対し、「魔法」は教育可能な技術でしかなく、それが非魔法使いに秘匿され神秘化されているのはあくまで秩序維持のためなのだという違いにこそ本作の凄みがある。技術はつねに汎用性を持ち、だからこそ悪用も可能である。しかし、だからといって技術の管理をエリート主義的に限定的な人々だけが担い、たまたまそうではなく生まれた人々は機会さえ与えられないという歪さが正当化されてよいのだろうか。性善説に立てと鼓舞する教育と、性悪説に基づいた教育の機会の非均衡。その矛盾にココの小さな体は常に晒されている。階級上昇の罪悪感が身に迫るというのもある。
「魔法」が明らかに「漫画を描く技術」の喩であることからしても、工藤郁子さんが『新潮』のエッセイで挙げていた「才能の民主化」が呼び水となって活性化する《可燃性の高い複雑な感情》のことも想起される。工藤さんのエッセイでは、才能への嫉妬が遺伝と直結して語られることに対して教育や努力への意識の不在を指摘されていたけれど、『とんがり帽子のアトリエ』においてはその教育や努力の機会さえ取り上げられている事態が描かれている。行為の反復を可能にする技術を教え授けること。それは、未来への希望である前に、次世代という他者へと引き継ぐ世界への信の形の表明なのである。だからこそ、技術の特権化を維持する大人の次の言葉が非常に重い。
大人はけして子供(きみ)を侮っているわけじゃない ただ世界を信用していないだけなんだ
白浜鴎『とんがり帽子のアトリエ』第41話
誰かのために努力する子供たちの善性はまっすぐに信じられるが、自分たち大人たちがつくり維持してきたこの世界の残酷さもまた覆しようがないと知ってしまっている。教育者の、現状秩序の再生産に寄与しつつ、その更新を願うというジレンマ。一方で、生徒たちは自分たちが身につけつつある技術の可能性が制限されていることへの違和を膨らませもするのだが、それは既存秩序の転覆を諮る大人たちの思惑との親和性が高い。
不当な不平等など打破してしまえ、と言い切れないのは、いままさに反エリート的な為政者がひとりよがりな舵取りで生活の安定を脅かしているのを目の当たりにしているからかもしれない。秩序のためのルールを抑圧や欺瞞とだけ捉え過ぎてしまうと、人は簡単に有能な独裁者への全権委任を望んでしまうものだ。しかしそれは、むしろ無秩序の増大であり、不自由への後退である。劇的な変化とはつまり既存の安定の徹底的な破壊であるからだ。追い求めるべきは自由を拡張できるようなルールの発明なのであって、ルールの破棄ではない。子供への敬意と世界への不信のあいだで引き裂かれながら、制度の漸進的変化をいかにして進めるか。地味に愚直に試行錯誤していくほかやりようはない。ことを急くとサボるよりも酷いことになる。十年かけて描かれた「魔法」を一日で貪り読むなんて、してはいけなかったのかもしれない。
