世が連休のあいだ本を読まずにいたのと、さいきんはアニメと映画にかまけていたのもあって、映像を見るノリで久々に小説に耽ってみるかという気分になる。半分くらい読んで寝かしてあった『割れたガラス』を再開するとぬるい酒のようにぐいぐいいける。ハンモックで読んでいたら三半規管がおかしくなって酔ってしまったのでソファベッドに切り替えるとルドンがやってきて股のあいだで毛繕いを始めるのだが自分の脚から狙いを外して僕のズボンをざりざりとやるのでやめてくれと懇願する。手を差し込んで身代わりにするのだが、この手でページを捲ったら本が臭くなりそうで後悔した。しかしこの酔いどれ小説の悦楽というのは格別だ。一気に煽るように読むのが適切だった。
そのままの勢いで荻世いをら『彼女のカロート』を読み、これまたいい小説だった。収録された両作ともに濃密な不在というモチーフを変奏しながら重ねながら構造化していくその運動自体がプロットめくという理知的な形式で、配置されるオブジェと人物に対する手つきが等価なのがいい。解説で千葉雅也も書いているが黒沢清の映画の撮り方と通じる手つきがある。テーマもエモーショナルもなく、ただ微妙にズレながら重なっていくモチーフのレイアウトが折り紙のように立体的に現れていく不穏な呑気さがただ楽しい。意味も情感もない、ただ構造物を吟味するような読書。こういうクールネスのほうが、暑苦しいものよりも格好いいという感性は加齢とともに増してきている気がする。音楽もそうで、若い頃は無機質なものは背伸びして聴いていてほんとうは心熱くなるものの方が好きだったけれど、いまではむしろ逆に熱いものをちょっと装う気分で聴いていて、冷たいものの方がしっくりくる感じがある。
『トピーカ・スクール』をすこしだけ読み、気がつけば夕方で、あらゆるタスクや用事をやり損ねていた。本に耽溺するとき、すこしだけ人間をやめている感じがする。ここではない非在の時間感覚が優位になって、生活が停滞する。ぽんこつのまま出汁をひき、たこ焼きをつくる。ぼへぼへしていたからガスボンベを切らしていることに寸前で気がつき、奥さんと本日二回目の買い物に出る。生活しながら本を読むってどうやるんだっけと零すが、いつもやってるじゃんといなされる。今日だって三食つくってくれてるし、すくなくとも私の前ではスライムみたいにでろでろに溶けたりはしてないからまだ大丈夫なんじゃない? 夕食後、奥さんは体調悪い、と言ってスライムみたいにでろでろに溶けてしまった。それでも目が合うと微笑むので格好いいな、早く寝たほうがいい。
