2021.04.27(2-p.53)

『機械カニバリズム』読了。僕は先に読んだ料理のやつもそうだが、とにかく久保明教の書くものが非常に好きらしい。観察者と被観察者は独立に存在しているわけでなく、観察する/される関係のただなかでお互いに変容し、それまでとは別の何かに生成変化していく。そういった人間の可塑性を特にポジティブにもネガティブにも捉えず、ただそういうものとして書く感じが好きだ。実家に暮らす僕と、一人暮らしする僕と、シェアハウスに住む僕と、奥さんとの僕はすべて異なる関係性のネットワークの異なる結節点としてあり、それぞれにちがった様相を見せて当然だった。純粋な個人など存在しないし、そもそも純粋な人間というのも存在しない。

二度ほど引用されるマリリン・ストラザーンの「一よりは多く、複数よりは少ない」という言葉がいい。僕という複数の結節点としてのありようを持つ媒介は、一人よりは多いが複数よりは少ないだけ存在している。複数よりは少ないいくつもの僕に僕は他者との出会いを通して生成していく。そういえば最近夢中に読んでいる『ドロヘドロ』も『BEASTARS』も生成変化becomingの物語だ。どちらも主人公は物語のなかで幾度も姿を変え、肉体の変化に伴う形であるいは肉体の変化を引き起こすような内面の変化も同時に起こる。それによって周囲の人間関係や状況も変容を被っていく。そのような相互作用のうねり。主人公は「一よりは多く、複数よりは少ない」。

僕が日記を書くのも、beのように確定できない自分に自覚的だからこそなのではないか。becomingの営為としての日記。明日にはもう今日考えていることは忘れている。本を読めば読むだけ過去の自分の考えが浅いように思え、何度も何度も転向を繰り返す。

こうした状況において展開された本書の記述もまた、専門書のような新書のようなブログ記事のような Twitter のタイムラインのような、チグハグな断片が連なっていく構成をなしている。それは、一九八〇年代の「ニューアカデミズム」において試みられたような、権威ある知を権威なき知と同列に扱うことで知の遊戯的転倒を目指すものではない。むしろ、知は分裂しクラスタ化しながら相互に影響を与えあっている。本書をある種の知を再構成する場として捉えうるとすれば、そこでは、ラトゥールやカンギレムやギデンズといった著名な学者も、ツツカナやポナンザといった将棋ソフトも、羽生や千田や三浦といった棋士も、「保育園落ちた日本死ね!!!」という投稿も、理香や拓人といったフィクションの登場人物も、おなじくらい雄弁に自らの存在を示している。それらの知を平等に扱うことが重要だというわけではない。それぞれの知はそれぞれのクラスタにおいて固有の説得力を保持しているが、その潜在的な力能は、個々のクラスタを超えてそれぞれが結びつきうる補助線をより多く引くことによって活性化されるだろう。そうした多様な補助線を引くことによって、私たちが生きるこの世界が分裂し断絶しながらも、たがいにたがいを暗黙裡に包含しながら部分的に繋がっている道筋を描きだすこと。それが本書における濁流のような記述によって試みられたものである。

久保明教『機械カニバリズム』(講談社選書メチエ) p.208-209
柿内正午(かきない・しょうご)会社員。プルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、「家」の別のやり方を模索するZINE『ZINE アカミミ』などを制作。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。