今年卒寿を迎えた祖父と米寿の祖母の祝宴のために横浜まで出る。本町の霧笛楼でコース料理。港町の洋食屋のアメトラ的世界観。白磁のでかい壺や、絵付けされた皿、飴色の木枠とステンドグラス。仏蘭西料亭という名が相応しい世界観。祖父母からすれば曽孫が生まれてから、いやそれよりも以前、孫たちが就労して以来なかったはずだ、全員が集合して、孫たちはそれぞれ結婚したりして増えている。まずは母が父を連れてきて五人家族になった、ここでさえ今は八人になっているし、母の二人の弟の家族までみんな合わせたら十九人にもなる。それがお祝いの席に揃っており、孫たちからは寄せ書きが送られ、それに準じて祖父母との思い出にまつわる短いスピーチが述べられる。いちばん年少から始められ、涙ぐみながら幼少期の送り迎えが嬉しかったこと、遅い時間まで夕飯を待っていてくれたこと、就寝前のお祈りなどについて語られていく。最年長者としては上から順番にして欲しかった。結婚して以来、自身の来し方と無縁の場所を点々としているのもあり子供の頃のことを思い出す頻度が非常に減った。寄せ書きを依頼されたときもあまり思い出せることがなく途方に暮れた。記憶は場所と結びついているからこの体ひとつでは思い出せない。だから孫たちの話を聞きながら、それらを聞いて涙を拭う親たちを見ながら、晴れやかに耳を傾ける祖父母の姿を受け取りながら、あああんなこともあった、こんなこともあったね、と浮かび上がるあれこれをしみじみと語り出したら長くなった。話の長いおっさんになった、いや、子供の頃から僕は多弁だった、むしろそれを抑制するようにして長じてきた。あえて口下手になるようなことをやっていた時期があり、そのことを後悔している。親類というのは子供だった誰かの逸話や記憶を保持していくものであり、若い頃はそれが煩わしかったり、だんだんそのような記憶から遠ざかることを成熟と取り違えたりもしたものだけれど、じっさい何も思い出せないと途方に暮れてみると、思い出せるということが、確認できる過去があり、それが追認されていくことで励まされるものがあるということがよくわかる。ふだんの生活は油断すると今、今、今しかなくなり、この局面ごとの最適解がそのまま自分の内面であると取り違えがちであるが、そもそも適当とか不適当とかでさえない次元でのただいる感覚というのが育まれた根拠である場所についての忘却がなければ人は社会的に営めないというのであればこそ、そうではない閉じた場所をこのように確保することの重さが身に染みる。祖父母のスピーチが始まる。結婚して六十六年、娘たちも還暦を超えている、でもそれは当然のことではまったくなかった。戦争があった。幼くして親を亡くし、物質的窮乏の中で歳を重ねていった。みなさんは若いですから戦争というものを知らないと思います。これは私たちにとっては大きな生活の変化だったわけです。小学生の頃、戦火が広がっていき、神田に住んでいた私は行田の旅館に逃げていった。八歳ではじめて親と離れて、本当に悲しくて、旅館の押入れで親からの手紙を読むたび、涙が溢れた。いやいまでもそうだ、読み返すたびに当時の心細さが生々しく読みがえる。終戦後の経済成長というものがどれだけ鮮烈だったか。衣食住、とくに食事。米でなくて芋を水でかさ増しした芋粥、大豆粕を丸めたふすま、そういうものをずっと食べてきた、今では大船の方まで和牛を買いに行ってしゃぶしゃぶをするのが孫たちの毎年の楽しみになっている。これからは新しい時代、AIの時代です。まったく新しい時代が来るのだと思います。これからはAIの理解なくして渡っていけない世の中だと、不勉強ながら私も感じています。いつだって同じようだった時はなかった。豊かになっていく日本で職を得て、一生懸命苦労して働いた。申し込んだ倍率三十八倍の公団住宅に二度目の抽選で当たって、これを機に結婚をしました。当時、公団住宅は憧れの住まいだった。所帯を持って、家を得て、ここれはじめて、ああ、いいなあ、結婚っていいなあと思えたものです。私にとってのいちばんの思い出は、なんといっても妻が中心となって子供たち、孫たちと一緒に旅行に行ったこと。妻が母としてみなの中心にあったこと、私は九歳の頃に母を亡くしていますから、家族の輪がこんなにも広がって、このような宴の機会に恵まれていることがどれだけ嬉しいか。こうしてみんなにお祝いしてもらえるのはいちばんの喜びだ、このうえない幸せだ、自分たちで作った家族は三人の子供たちだった、それが今ではこんなにだ。みんな長生きして欲しい、またきっと集まりたい。篤く御礼申し上げます。
