『機械カニバリズム』では、人間を考える時、人間でないものとの比較のなかで人間だけが持つ性質を抽出するような試みには限界があることが指摘される。近代というのは純粋な抽象化の時代だった。けれどもいまとなっては、我々は人間なのかと問われた時、近代的態度では人間ではないと答えるしかないだろう。人間と機械の重なり合わない部分がどんどん縮減しているなかで、機械と人間の比較から人間に独自の部分を人間たる所以として名指す困難は日々大きくなっていく。けれどもそもそも機械でない部分が人間たる所以であるという等式がそもそもおかしい。人間にも機械のようなところがあり、蟹のようなところがあり、土のようなところがあるというだけで、機械や蟹や土が人間と同じような何かを有していたとしても、それを根拠にそれらが人間であると断言することはできないし、なにともダブらないオリジナリティだけが人間の人間たる所以であるとするならば、おそらく人間には何一つ残らないであろう。そもそも独自性とある存在がそうである根拠とは全く別のものであるはずなのに、なぜ人間には人間にしかないものを有している必要があるなどと考えるのだろう。この世界は「一よりは多く、複数よりは少ない」。
あらゆる個人はさまざまな事物たちを媒介する複数よりは少ないハブのようなものである。そうであるとしてもこの体に紐づいた自己は一つであるのも本当で、ある朝起きたら別の誰かの肉体にこの自己が宿っているということはない。観察者がこの僕のありようを成形するありようは観察者の有するコンテクストの数だけありうるだろう。しかしそれは観察者と僕との間に生成する新たなコンテクストとしての僕であって、僕が僕の生成変化するコンテクストの上で知覚する僕とはやはり別物だろう。あらゆる誤解は、お互いに目の前に提示されたものがどれだけ齟齬のありえない事実であろうとも、その事実に価値判断を下す個々人の根拠となるコンテクストはバラバラであるということに盲目であるからこそ生じる。
多くの人間は自分あるいは現在の文脈でしかものを読めない。いまのCOVID-19 にまつわる状況の先の見えなさは、未来から振り返れば始点があり終点がある。これは過去の戦争や飢饉や寅さんもぜんぶそうだった。誰もいつ戦争が終わるともわからなかったし、いつになれば飢えから解放されるか予測もつかなかったし、寅さんが二十六年も続くことを想像しなかった。過去のことを過去としてしか振り返らない現代というコンテクスト上の僕たちは、飢餓や戦争や寅さんを◯年続いたものとしてある単位として捉えがちであるが、それらを考えるとき重要なのは、いつ始まりいつ終わるともしれぬ生成変化の渦中において、当事者はどのように材料を集めどのような合理性のもとに判断を下したのかと考えることであって、時間や地理といったものの外野から全体を見通せるような顔をして何かを言った気になるというのは実際のところ何も考えられていないのと同じことだ。考えるということは自分の立場からなにか言って気持ちよくなることではなく、ある他者に向かって自己を拓いていく過程で盤石だと思い込んでいた足元がいかなる虚構に支えられているかを自覚し、いまもこうして立っていられることすら信じられないような不安を覚えるような行為であると僕は信じている。