昨晩は寝る前に『ゾンビランドサガR』の最終回。いい最終回だった。最終回は集合さえしてもらえたら泣ける。慰安を供給するアイドルの生の否定、というのがこのアニメの持つロメロ的批評の視座なのだと改めて。あまりに最終回として完璧な、最高のライブの余韻はしかし暴力的なCパートによってあっさり吹き飛ばされる。推しという消費のいかがわしさや、エンターテイメントによる救済を、ああも見事に併せ呑んで肯定するような画を作っておきながらのちゃぶ台返し。頼もしい。そう簡単に気持ちよくなるなよ、という冷静さ。
今朝は出勤。職場ではOVER THE SUN のあんかけ回。いい回だった。自分のよく知らないことへのリスペクトの示し方の難しさ。コンテンツへの興味はなくとも、相手への興味はあると示す身振りの尊さ。他人への興味と自己顕示欲との履き違えか起きがちな僕は、お二人の気遣いに満ちた正面衝突に、友達想いになりてえ、と切なくなった。このおセンチに任せて古い友人に連絡でもしたいがそんな図太さは今はない。むしろ当時の不義理や非礼を思い返してはもう連絡なんてとれたものではない、とぞっとさえする。でもできることなら、また話がしたい、とは思ってしまう。いつだって今が一番いい人間なような錯覚があるが、いつだってそのときどきの誠実さと最低さがあったはずだ。
ふとやる気がなくなって事務所を出る。お腹も空かないしなあとご飯も食べずに総武線で幕張に向かう。知らない土地へと向かっていく電車の、自分との関係のない感じが好きだ。本屋lighthouseの幕張支店に初めて行く。入ってすぐのH.A.B のすのこ! 懐かしくなって、陳列される新刊を眺めていく。そのまま店内を一周して、買うものを決めていく。いつの間にかコクヨ野外学習センターの本も出てる、だとか、ちょうど電車で別冊を読んでいた『つくづく』のガイドやバックナンバーがあったり、どこかで買おうと思っていたインセクツがあったり、どんどん欲しい本が決まっていくがなんだか対談や雑誌ばかりだな、一冊くらいがっつりしたやつが欲しい。そう思ってもう二周くらいして、『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』というタイトルが目に留まり、いま書いているものの気分の一側面が端的に要約されてしまっているな、と思いとりあえず買ってみることに。レジで関口さんにご挨拶。『プルーストを読む生活』を置いていただいているお礼など。お隣のコーヒースタンドでごはんを食べながら互助会の続きを読む。それから本店の小屋も見に行こうと若林さんと宮田さんのポッドキャストを聴き返しながら歩く。なんとなくさん付けにしたのは下の名前を調べるのが面倒だから。道中に繁茂する緑が多い。住宅地の勾配を行きながら空の広さに海を感じもする。ふとGoogleマップ上で突然現れる川が気になる。起点は小屋のすぐそこだった。小屋はいい佇まいで、住宅地なので閉店している小屋の前で立ち尽くしているとけっこうな怪しさだろうと何枚か写真を撮って早めに退散。問題の川はどうやら総武線かなんかの線路で分断されているようで、じっさいに見に行くとトンネルのような形で地下から地表へと川があらわれている。ふと思いついて川沿いを下っていく。先ほど海を想起したのもある。このまま下れば遠くないところに海があるはずなのはマップでも感覚としてもわかっていた。小一時間くらいだろう、暑さもそこまでだし、せっかくこうして逃避のような形で遠出をしているのだ、なんかバカみたいなことしよう、と海を目指す。マップは見ずに川を目印にしていく。しかしここらの海はどちらかというと物流や製造の拠点であるらしく、港に近いところならではの、歩行者が想定されていない大通りの分断に阻まれる。こんなところでも中学生や高校生の半袖が目立つ。彼らはこともなげに歩行者用の下の道へと入っていくので、それを参考に登り下りしながら南進していく。あらゆる道のスケールのせせこましくなさに歩きながら後悔がもたげてくる。すぐそこに見えるビルになかなか着かない。遮蔽物もないからストレートに照りつけてくる。汗をぐっしょりかく。川を辿ればたぶん小一時間で海に行けるという楽観への疑いは、幕張メッセが行き止まりのように現れたあたりでいよいよピークになりもう引き返そうかと思う。それでも何かムキになるというか、ここまで来てもったいないと貧乏性を発揮してもう少し頑張ると幕張海浜公園に着く。駐車場が広い。入口が分かりづらくて一度通り過ぎる。後から来た二人組が入っていくのを見てそこだったかとついていくようにすると、ざっくりと土の剥き出しの道の向こうに突然砂浜が見えて来る! 適当なところに腰掛けて、海だあ、と思う。奥さんは海はベタベタするだけだと大豆田とわ子と同じようなことを言うから、こうやってふらっと海を見にいきたくなる気持ちはあまり共有できない。そもそも海はこうして一人でなんとなく来てしまうものだった。若い頃のような感傷があるかと思えばそうでもなく、ただ無心になれるというか、規則的なようなそうでもないような、茶色くて綺麗でもない波打ち際で波を眺めたり聞いたりしているとちょうどよく頭の関心がそれで埋まっていく。そうやって頭を空っぽにしたくて海に来るのだから、一人で存分にぼーっとできたほうがいいし、一人だと格好つけることもないから飽きたら五分でも勿体ながらず帰ってもいい。そういう時間で計測できるようなものではない形で時間を過ごすためにも海に行くわけで、さっさと満足すると波の音を聞きながら『つくづく別冊』を読み切って、それからはぼへーっと海を眺めていた。夕暮れていくにしたがい風が出てきて、汗はすっかり乾いた。やっぱり顔はベタベタした。もっとここにいたいな、と思いながらも、いい時間だし、充電もなくなってきたので帰る。砂浜の傾斜の、下るときには気にならない重力のかかり方に嬉しくなりながら、何度も、じっさいには二回くらいだが、海の方を振り返って、思った以上に切なくはならないもんだな、それでもやっぱり海はいいな、べつに臭くても汚くても、広くて波の音がしてれば海だな、と確認する。帰りの駅までの道のだるさったらなかった。
電車の中で充電も切れそうなので耳も塞げない。さてどうしたもんかな、といつもよりずっと長い帰路を本を読んで過ごす。自由研究、文化人類学、仕事文脈…… ついさっき買った本をザッピングするように試していくうちに、なんだかすっかり気持ちがマシになっていることに気がつく。本屋も、構築し切れない広めの景色も、思えばさいきんご無沙汰だった。自分を救うのは他者とのいい関係だが、いい関係を築くためにはある程度こちらに余裕がある必要がある。僕の場合はいい本屋の気持ちのいい棚のあいだに遊んだり、海や山のてきとうなところで人間の手に委ねたり離れたりしている様子を眺めることでしか回復できない余裕というものがあるようだった。帰って奥さんと何をして遊ぼうか。奥さんはこの磯臭さに気がつくだろうか。
前の段落まで書いて、キャストリアを引こうとしたところでとうとうiPhoneがくたばる。電車も遅れていて何度も止まるから仕方なく何駅か歩くことにしてまた汗だくになる。帰ってすぐにシャワーを浴びたから奥さんは僕が磯臭かったか確かめられない。なんだか浮気帰りみたいだな、と思う。浮気するとなると考えるだけで面倒だがなによりこの日記の偽装工作が面倒だ。今日の日記も要約すると「会社を抜け出して海を見に行った」という想像力も面白味のかけらも無いいかにもな紋切り型で、これも素直に書くか迷うし、けれどもなんだかそういうことになってしまったのは事実なのだから書くしかない、と思いつつもなんとなく気が引けて夕食の席で何してたのと問われてもなんとなく答えをはぐらかそうとする。結局は白状して、こうして日記にも書くことになる。ここまで書いて別にそんな言い訳しなくたってふらっと海に行ったっていいじゃないかと自分でも思うのだけれど、自意識の肥大していた学生時代、とにかくなにかセンチメンタルに浸りたくなるたびに小田急線の反対方向に乗っては海に出かけて思う存分センチメンタルと自意識に栄養を与えていた記憶がまだ生々しい僕は、海と肥大した青臭い自意識が癒着しているような感じがするのだ。とはいえ僕はもう海が自意識より広いことも無意味なことも知っているから、面白半分に面倒臭そうなことを書いてきたが実はそんなこと微塵も気にしていなくて、気にしなくなっている自分がすこし誇らしくもあるのだ。