2021.07.18(2-p.150)

友達に会いに行く。シェアハウス時代に知り合って、だからもう七年くらいで、そのころ彼女はまだ二十歳になるかならないかだった、その頃の僕の年齢をとっくに追い越している今のその友達は、それでもなんとなく最近知り合った、という感覚が抜けなくて、会社員になってからの時間の停滞の感覚を思う。それでもふたりとも確実になんなら学生時代よりも目まぐるしく変化していて、その変化を驚いたり面白がったり嬉しがったりしている。

ところで、その時に私は政府当局者の顔を見ていてふと思ったのですが、四月二十八日の午前中に、彼らの目の中には何ら不安がありませんでした。これは私も非常に敬服したのですが、もし私が全学連であったらどう感じるだろうか。私はモーリヤックの書いた「テレーズ・デケイルゥ」という小説をよく思い出すのです。あの中に亭主に毒を飲まして殺そうとするテレーズという女の話が出てまいります。何だって亭主を毒殺しようとしたか。愛していなかったのか。これははっきりいえない。憎んでいたのか。これもはっきりいえない。はっきりいえないけれども、どうしても亭主に毒を盛りたかった。 そして その心理をモーリヤックは いろいろ追求しているのですが、最後にテレーズは、「亭主の目の中に 不安を見たかったからだ」というのであります。私はこれだなと思うのですが、諸君もとにかく日本の権力構造、体制の目の中に不安を見たいに違いない。私も実は見たい。別の方向から見たい。

『討論 三島由紀夫 VS 東大全共闘』(新潮社) p.8-9

移動中に読み出した『討論 三島由紀夫 VS 東大全共闘』がめっぽう面白い。映画を見ているから文字起こしがかなり忠実なこともわかる。感心してしまうのは半世紀前の人間たちの口語の立派さだ。なんて流暢に格好のいい言い回しで語るのだろう、みんな寅さんみたいなのだ。ちゃきちゃきしてる。文字で読んでもそれは同じで、しっかりしているなあと思う。

この気分は日本全国に漏漫している。イデオロギーなんかどうでもいいじゃないか、筋や論理はどうでもいいじゃないか、とにかく秩序が大切である、われわれの生きているこの社会のただ当面の秩序が大切だ、そのために警察があるのだ、警察はその当面の秩序を維持すればいいのだし、当面の秩序が維持されさえすれば、自民党と共産党がある時、手を握ったっていいのだという。いまそこの入口で「近代ゴリラ」とかという絵がかいてあったが、私はそういう点じゃプリミティブな人間だから、筋が立たないところでそういうことをやられると気持が悪い。私は、自民党はもっと反動であってほしいし、共産党はもっと暴力的であってほしいのに、どっちももたもたしている。(笑)その点が私がいらいらしている一番の原因です。

同書 p.11

今、僕は感心ごとを1970年の前後に設定しようとしていて、それはこのころに議論されたことがいまになってもアクチュアルであるというか、このころ闘争という形で提議されていたことが半世紀経ってようやく表立ってきたように思うからで、人や社会は半世紀くらいじゃ変わらない、ということを思い出せるというか、技術決定論なんて話半分に聞くべきもので、じっさいのところ今は69年のこの議論をようやく自分ごとととして検討できるようになっている。あるいはこの半世紀ずっと同じようなことばかり言われている。

権力者というのが、迷宮的な官僚機構の神秘を剥奪され、社会の諸関係の調整能力ではなく、組織内での利害調整にしか能がない無思考な人々であることが露見してしてしまったいま、彼らの安心を担保する組織構造自体を破壊したい、という気分が強まってはいる。それでもそれはいまある秩序を乱してまでも手に入れたいとは大多数が言い出せない。ここに現代の行き詰まりがある、というのは最近思うことで、やはり革新という意味での左翼は暴力的でなければいけないのではないか、と物騒なことすら考える。既存秩序の恩恵を大多数が受けているからこそ、どうやったって中途半端で思考放棄しきった保守の反動が幅を効かせる。革新が弱いのではない。革新の必要は誰もが薄々勘づいている。それでもなおいまある安心や安全の幻想、秩序はまだ保たれているという幻想への執着の方がずっと強いのだ。

僕たちが今対抗すべきなのはわかりやすい権力者ではない。あの人たちはやはりろくにものを考えていないただの無能なのだろう。そうではなく、そんな無能の思考放棄を看過してでもいまある秩序を保持したいと考える市井の保守性なのだ。とはいえ、かくいう僕もいまの生活の安定を自らの理路のために放棄できるかと言われればそれは無理だというほかない。忸怩たる思いだ。しかし、行動を伴わない忸怩など虚無だ。

つまりその根本的な点というのは、三島氏及び司会者は、両方とも人間対人間の関係しか論じなかった。これは人間対人間の関係のみで一切を考えていこうとするある根本的な発想──たぶん全共闘も、ある程度そういった欠陥を持っていたと思うけれども、そういう発想の限界をいまもって東大の全共闘というものが打ち破れていない。欠陥はそういう点に起因するのではないかと。それなので、少なくともぼくの見た目では、むしろ三島氏のほうに、有利なように いままでの話が運んでいってしまっている。これでは全然ケンカにならない。ケンカにするにはどうすればいいか。ぼくは自然対人間の関係というのを、ここで一つの問題提起としてのみ、ぼくはそれ以上展開できないから、自然対人間の関係というものをここでこの議論の中に持ち込んだほうがいいと思う。
というのは、三島氏の言われる自然というのは一体何かというと、ぼくの聞いた限りでは、人間の肉体というか、その人間の肉体を機能させる意思というか、そこまでしか見ていない。そういうものではなくて、実際に非人間的な自然というものがぼくたちの目の前に存在しているはずだ。都会に住んでいる限り、そんなものは見えないかもしれないけれども、それが実際に都会の中にも存在しているはずだ。最終的にものをいうのは、そういった非人間的な自然であると。その非人間的な自然を、ぼくたちがどこまで機能させ得るか。そこにぼくたちの力がどこまで発揮されるかということがかかっていると思う。その点を引き出して いかないならば、ぼくたちの考えていることというのは結局、別にマルクス主義であろうがなかろうがいいけれども、少なくとも唯物論といういままでぼくたちが守るべきであると思っていた一つの筋というものを全然忘れ去ってしまうことになるのではないか。その点に、いままでの討論の拙さがあるのではないかと思って、ここでその点を提起して、ほかの発言者の発言を待ちたいと思うのですが。

同書 p.26-27

斎藤幸平らのマルクスのエコロジー読解を待つまでもなく、ここでの全共闘メンバーの発言は環境問題への左派的応答の可能性を秘めていたのではないか。個人主義や人間中心主義としての近代の乗り越え。70年代前後に盛り上がる対抗文化の骨子はこれで、その方向はギーク的な技術決定論か、サイケデリックなスピリチュアルという二極化を見せていったわけだけれど、前者が勝ちすぎた結果、後者は敗残者らしく美化され、いまになって前者に取り込まれようとすらしている。しかしほんとうにこの二極しかないのだろうか。安易な二項の立て方でこの時代を把握しようとするから隘路に入り込んでしまうのかもしれない。近代を問い直すためにも70年前後の社会を検討することが始まりのように思えてならない。

そんなことを考えながら下北沢について、友達とはしゃぎながら美味しいランチを食べて、月日で『プルーストを読む生活』を買ってもらって、僕はフランス革命期の市民の日記を買った。それからいーはとーぼで『プルーストを読む生活』にサインさせてもらった。これからの日々もきっと楽しいねえ、とにこにこしながら解散し、帰りしなにさらっとプレゼントされた紫のカーネーション? 花の名前はわからないけれど、それを嬉しく掲げ持って帰って、それを奥さんが適当な瓶にすてきに挿してくれた。明日はものすごく忙しない。大変だなあ、と今から憂鬱でもあり、気合が入りもする。しかしここ数日外出が続いて、正直なところ帰って寝たい。いや、いまは家にいるのだけれど。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員。プルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、「家」の別のやり方を模索するZINE『ZINE アカミミ』などを制作。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。