2021.07.19(2-p.150)

朝起きて支度をして朝食のグラノラが食べられない。気がつくとだいぶ具合が悪い。胸焼けがする。吐きそうだ、トイレに篭って「寝起き 胸焼け」で検索する。たいがいの不調はストレス由来というもっともらしくて特に何も言ってない結論になる。思い当たる節がありすぎる。グラノラは牛乳とそこに溜まった分はシンクに捨てる。熱はなくてよかった。これは悼む気持ちと、昼間の賃労働でのでかい仕事への緊張と、どっちが強いんだろうな、と思う。体はそうした諸条件を識別できるものなのかよくわからない。体にとってはストレスはストレスなのかもしれない。だとしちらこれは単なる加算式のでかさで、一個一個楽になっていくはずだった。たかだか賃労働で追い詰められるのは主義に反するが目の前のことに影響を受けないでいることは無理だ。椅子の上に丸まって、嫌だあ! と小さく叫んだ。家を出ると日焼け止めの塗り忘れに気がつきコンビニにはなくて導線から微妙に外れる薬局に寄る元気はなくてそれでも結局乗りたい電車を逃してしまった。

もうだめかもしんない、と思う。満員電車で平気で脚組める人。マスクをしないで済ます人。マスクで軽減するのはどちらかというと自分からの感染リスクであって、つまりそこにあるのは感染させても構わない、という自身の加害可能性への想像力の欠如だ。その欠如がただ悲しい。そんな状態で『ルックバック』を読んだから車内でえずきそうになった。

昼休み。食欲はないがお腹の調子は悪いのでトイレに篭る。便器の上でTwitterを眺めているとタツキ一色でしっかり白ける。白ける前に読めてよかった。ロカスト。イナゴのようだ。しかしそこで作品を消費し食い尽くす勢いは、批評ではなく考察で、批評を殺すのは無思考ではなく、思考したいという欲望が、明らかにされるべき正解があるはずだという願望と無批判に接合した時に現れるもの──考察──の大群なのではないか。意外と人は考えたがっている。ただし、隠された正解があるという前提の上で。考察の快楽は、隠された正解というものの価値を疑わないから、価値そのもののあり方を探ろうとする批評とはやはりまったく質を異にする。考察への耽溺を警戒できない人は陰謀論を笑えない。タイムラインから幻視する「大衆」みたいなものに幻滅したり憤ったりしていたら元気が出てきてしだいに空腹を感じる。やっぱり自分以外みんなバカだと思っておくのは健康にいい。愚かな大衆と違って俺だけがタツキのことをわかってる。こういう自家撞着はそろそろ冗談で済ますべきではなくて、しっかり向き合うべきだとも思うし、一意にこうと決められるという考え方こそがやはり嘘だとも思う。ともかく僕は考察はくだらない。作品はやはり小説と同じですべてただそれを体験している時間にしか存在しない。外在を仮構する批評はだから野暮だが、積極的に作品に内在するものの発掘と検討に注力する考察はさらに野暮ったい。だんだんとわざわざこの日にこれを公開することに、やはり人の心がないのではないかとすら思えてきた。人の心のない作品は好きだけれど、それを人の心でもって受容できてしまう下品さは好きではない、ということだろうか。撒かれた餌の露骨さ。それに飛びつく安易さ。その安易さに面白さはない。その面白さはつまらない。そんなにつまんない作品ではないのでは、みたいな違和感。わかっている、この書き方は書き手のスタンスが定まっていなくて混乱している。だからなんだというのだ。

結局何が食べたいのかわからないまま昼は終わる。なんだか体が先に喪失を実感しているみたいだ。この意識はまだ実感を持たない。賃労働の時間は、というか、会社員としての時間は、考察の時間だ。そこに批評はない。会社という組織に内在し、一意に決まる「正解」としての目標に向けて官僚機構をつつがなく稼働させていくことに専念する。組織に内在的な「正解」が本当に妥当な価値を持つものなのか、そういった外在的な立場からの問い──批評──は、組織に内在する人としてはそもそも成立しない。組織に外在的な人から見れば当然抱くような疑問は、内在的な人からすれば問いを立てるという発想すら生まれない。なぜなら僕らの内在する機構は、そもそもその「正解」を前提として計画され、その「正解」を最大限効率的に実現させるために実行されていくものだからだ。会社員はおそらく、五輪の醜態を眺めながらどこかシンパシーを抱くのではないだろうか。自身の内属する、誰もが泥舟と自覚しながらも止めることのできないプロジェクトを思い浮かべて、そういうものなのだと諦めてはいないだろうか。外からの批評に耳を傾けず、内側で循環させる考察──「正解」の妥当性を問わないままにその「正解」を補強し続ける──だけで持続することがどれほどの害悪をもたらすか、そういった強烈な自省にまで至ることができる人がどれだけいるだろうか。僕だって、組織人として組織の前提を問えるとは思っていないのではないか。それがどれほど酷い事態であるかわかっているくせに。官僚機構の運用に資するように働くことは、官僚機構の維持こそがその労働の持続の条件であり、だからこそ誰も機構自体を問い直さない。問い直さないでいられるのが会社員というものだ。システムの運用にさえ気を配っていれば、あらゆる外材的なものごと──私生活、死、この組織の外で暮らす無数の生、芸術など──を考えないで済む。持続だけを旨とした永久機関を幻視できる。僕はそれに馴染みきることができない。馴染めなくてよかったと思う。それでもふと目の前のプレゼン準備に拘泥し、身近な悲しみを感じ損ねていることに気がついて、ゾッとする。

退勤後、奥さんと東京駅で待ち合わせる。会社の道具を奥さんに預け、喪服やそのほかの荷物を受け取る。こういうとき、具体的に手伝ってくれることがどれほどの助けになることか。今朝は余裕がなくて内に篭もりがちだったが、一仕事終えた今は奥さんの親切が染み渡る。一緒に夕飯を食べて、東京駅を歩くうち、僕はふだんJRに乗らない奥さんの帰りのルートばかり気にしていたら、荷物だけ持って来させてさっさと帰すわけ、と奥さんは少し不服そうにする。それで名残惜しくなって、切符を買ってからもすこし休もうかと思い、けれども僕はここで安心しきってしまったらもう動けなくなりそうで、さっさと新幹線に乗ることにする。改札の前でベタなカップルのようにもたもたする。そうしているうちに本当に一時のお別れが切なくなる。改札を通って、何度も何度も振り返って手を振る。奥さんも何度も何度も手を振る。奥さんの姿が見えなくなって、涙ぐむ。やばい、泣いちゃう、と思うも上がるホームを間違えて、こちらは同じ30分でも一時間後の出発で、この時間は隣だった。慌てて走って駆け込むように乗り込むとすぐに出る。

この日記は、あとから読み返したら安っぽい自己憐憫に酔いすぎていて気持ちが悪いかもしれない、きっとそうだろう、と思う。別に僕は可哀想でもないし、誰も可哀想ではない。それでもそこに憐憫を感じるとしたら読むという行為にべったりと憐れみのようなものが取り憑いているからだろう。それはたとえば神のような外在的な視点から読んでいるようで、実は自身の内在する文脈に驚くほど無自覚でもありうるだろう。書くことは嘆きではないし、読むことは憐れみではない。書くことはただ書くことで、読むことはただ読むことだ。しかしそれはたぶん僕が今考えている以上に困難なことなのかもしれない。わからない。書くべきことと同じように書くべきでないこともないはずなのだが、そもそも僕はこの日記で自己を開示することを好まない。それでも読む人によっては赤裸々に過ぎるのであろうし、また読む人によっては肝心なことが伏せられていると感じる。書き手は書き手の倫理で書かないことを選択する。読み手は読み手の倫理で、書きすぎだとか書かなすぎだとか判断する。書き手の書く書かないの判断の迷いは、読み手にはどのように伝わるのだろう。やはりつまらない自己開示に過ぎないだろうか。別にどうでもいいだろうか。僕は僕のことをどうでもいいと思えば思うほど、書けることは自分のことばかりだ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員。プルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、「家」の別のやり方を模索するZINE『ZINE アカミミ』などを制作。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。