2021.07.20(2-p.150)

午前中に教会で執り行われた葬儀は、すでに高く昇った陽の光をいっぱいに取り込んだ礼拝堂に流れ込む蝉のノイズをぼんやりと聴くうちそこまで上手くはないオルガンの音で始まった。

そこで発される言葉も素朴で、式全体の段取りとしても洗練されているわけではない。だからこそ、あっさりとした事実だけがポツンと置いてある感じがした。牧師さんのお話を聴きながら僕は腹が立ってきていた。それは牧師さんの言葉に対してでも、牧師さんに対してでもなく、人が死ぬということへの腹立ちだった。なんで終わりがあるんだ、ふざけるな、とそれは静かな怒りであって、叫び出したいわけでも、何かを殴りたいわけでもなく、終わりがあるという理不尽さへのただただ不服の思いだけがあった。故人の人となりや思想を、乱暴に社会的なコードに要約することにつよい嫌悪を感じる僕には、故人の人生よりもその信仰にフォーカスを当てる式の進みにはむしろ好感を持っていた。ここは信仰の場所なのだから、そこからはみ出る部分は各々で補えばいい。個人の生というのは数時間の式で総括できるようなものではない。だからこそ、なによりも、いつも作務衣に下駄履きであった、という些細な描写にこそ僕という個人は故人との連絡のとっかかりを得て要約不可能な広がりを全身で想起する。見よう見まねで讃美歌を二つ三つ歌ううちに、腹立ちは薄れ、地上での生活は楽しかったねえ、というような声をかけたい気持ちでいっぱいになった。生と死をはっきりと分け隔てて、生き残った側の感傷的な気持ちを煽るようなところの一つもないその式で浮かぶのは、その人の生きた時間の全体であって、ここが終着点なのだ、というようなカタルシスはなかった。僕はそれにほっとするようなところがあった。喪失も終わりもさみしいけれど、これまでのすべてを覆してしまうような悲しみではないのだ。

火葬場に移動してからはまた腹立ちがやってくる。すべての死に没入しては身が持たないであろう従業員の、自衛と気遣いの結果であろう心を込めない接客の型がグロテスクだった。また死が社会の側に取り込まれていく。そんな気持ちだった。弁当がうまいのも腹が立つ。僕は全ての理不尽に挑むように、攻撃的な気持ちで弁当箱の内容を次々に口に放り込んでいった。甘辛く似た煮魚を噛み砕き、それを飲み込む前から煮付けた里芋を加えて粘りをつける。えび、肉巻きインゲン、海老の天ぷらもどき、がんもどき、焼き魚、冬瓜、うずらの黄身、えんどうまめ、濃いめの味に汁気の多いものを追いかけさせるように、ほとんど一度も手を止めず、口の中も空にせず、黙々と、食べていく。背筋は伸ばし、あくまで丁寧に箸でひとつひとつつまみ上げていく。おいしかった。

ずっと暑くて青空だった。

それからこんな時間まで、LINEのアカウント引き継ぎのために大活躍したり、いろんな話をしたが、そこで交わされた言葉の居場所はここではないだろう。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員。プルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、「家」の別のやり方を模索するZINE『ZINE アカミミ』などを制作。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。