2021.07.23(2-p.150)

本書の執筆に際して、特に次の諸点について留意した。第一に、すでにくり返しのべたように、本書は専門家でない読者の方々がお読み下さって必要な知識を得られることを目標とした。しかし、その種の入門書にしばしば見られる欠点は、入門書であるからとて奇妙に水準を下げて書くことである。それは正しくない。専門家でない読者といっても、この事柄については専門家でないというだけの話であって、知的水準からすればこの事柄の専門家であることを自称している者たちと少なくとも同等、しばしばそれ以上であるのが普通である。そういう読者にお読みいただくことを目的としている以上、水準においては、自分にできる限りにおいて、いささかも手加減しない、という姿勢が必要である。理想を言えば、入門書とは水準において最高のものでなければならない。だから、原則的には、いかなる記述についても、どうしてそういうことが言えるのか、という論拠(反対の論拠も含めて)を可能な限りすべて提示することが求められる。それではじめて、専門家でない読者が、しかしその知性の水準に応じて、満足のできる読書ができようというものだ。個々の点について私の説を読者の方々が受け入れられるかどうかは別問題である。もしも受け入れられないとしても、どうして受け入れられないのか、ならばほかにどういう可能性があるのか、といったことについて、読者がおのずとお知りになれるような仕方で概論の書物は記述されなければならない。専門家の仕事は、必要な情報をすべて読者にお伝えすることであって、その情報について判断する知性については、専門家非専門家の区別はないのである。
第二に、第一点と同じことであるが、原則としてどなたがお読みになってもわかる書物にしようと努力した。水準が高いということは内容の問題であって、やたらと「専門用語」を並べたり(しばしば生半可に)、重要な知識や論点にふれずにおいたりして、読みにくい、わかりにくい本を書いても、それは水準の高さを意味しない。内容的な水準が高ければ高いほど、読者には読みやすい、わかりやすいものになるはある。
従ってまた、通読して面白い書物である必要がある。ずっと続けて読む気の起こらない書物であっては、読者にとって存在意義が半減する。理想を言えば、書く意味のあることだから書くのであって、従ってそれは読む意味があるから面白い書物になるはずである。著者としては、面白いから是非通読して下さい、と申し上げたいところである。

田川健三『書物としての新約聖書』(勁草書房) p.ⅴ-ⅶ

よい入門書や教科書は、前書きの時点で心躍る。ようし、頑張って読むぞ、あたらしい知識を飲み込むぞ、と思える。『通天閣』とこの本を併読するとなると、どちらを読んでも手首の休憩にはならない。読んでいれば読み終わるのだけど、この二冊との日々はおそらくずいぶん長くなりそうだ。

Apple Musicを起動すると二時間遅れくらいで始まったカニエのお披露目会がちょうど始まるところで、格好いい音に合わせて練り歩くカニエを眺めながら格好いい音を聴いていた。終わるころ、現地は23時。二時間以上待ちぼうけだ会場の人たちは、お腹空いちゃわなかったろうか。

お昼を食べに二人で出かけて、お茶したあとはそれぞれ反対方向の電車に乗る。奥さん側のホームへの階段へ降ってくのを見送って僕も僕側へ降りていくと当たり前だが向かいのホームに奥さんがいる。なんだか愉快で、にこにこと手を振って、この距離感が新鮮なのだろう。iPhoneを取り出して写真を撮ってラインで送ると同じことを考えていたようで同じようなタイミングで同じような構図で撮られた僕が送られてきた。

新木場へ。ROTH BART BARON のライブを見に行く。床に等間隔に貼られた足跡のマークにさみしくなる。けれども客電が落ちると周囲に密着する人がいない快適さのほうが勝る。ぶつかる心配をせずにゆらゆらと身体を揺らせる。浴びる音がいちいち気持ちがいい。情報量がいちいち多くて、彩り鮮やかで、浮遊感のある音の重なりのなかでふわふわして、光の使い方もMVで感じていた通り非常に巧みで、視覚も喜ぶ。ああ、ここは楽しいな。けれども三時間立ちっぱなしでこの豊かさは受け取る側もたいへんだ。かなりくたくたになって、最後のほう少し意識が飛びそうだった。そういう半睡半覚の状態でいるのも気持ちがいい。とはいえこれはじっくり座って鑑賞したいとも思われたのでアーカイブも買って、帰りの電車でさっそく聴き直す、当たり前だが全身で浴びるのと耳だけで聴くのは全然違う。耳だけの方が僕は音の処理という意味だけでいえば賢いところがあって、ここもあそこもこんなに良かったのか、と改めて気がつく。こうして間髪入れずにライブのパフォーマンスを振り返れてしまうの、すごい時代だなあと思う。ヘロヘロの状態で物販でへどもどしてたら一枚のはずが二枚Tシャツを買ってしまったから、ライブのチケットの三倍以上の金額をTシャツとアーカイブに払ったことになる。それでもまだ払い足りない気もする。いいものにはどんどんお金を払いたい。

久しぶりにひとりでいい景色を見たな。好きな人と同じ景色を見ようとするよりも、好きな人のいない景色を見た方が好きな人のことを考える。こんなものを見たよ、と報告したくなるからおしゃべりに花が咲く。二人で一つのものを見るよりも手分けして二つ見たほうが得だとも言える。損得ではないのだけれど。保坂和志がどこかで他愛もないツイートというのは恋人に宛てた言葉のようだと書いていた気がする。僕のこの日記は書かれることの現場に不在の奥さんや、実家の両親や、もう会うこともなさそうないつかの友人たちに向かって書かれているのかもしれない。それはそうした人たちに読まれることを想定しているとかそういうことでもなくて、届くことを期待しないままにただそういう人たちを思い浮かべながら書かれることがあるということだ。宛先のない文字というのはありうるが、他者のない文字などない。

家に帰って奥さんの作ってくれた美味しいスパイスカレーを食べながら、今晩知った水野蒼生という人のオープニングDJとパフォーマンスを一緒に観て、DJって指揮なんだねえ、スカしすぎずにベタをやってくれるの楽しいねえ、などと感心しながら言い合った。同じ景色、見れちゃってるな。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員。プルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、「家」の別のやり方を模索するZINE『ZINE アカミミ』などを制作。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。