超寒い。暑い日はなんも考えたくないから働きたくないし、寒い日はなんも動けないから働きたくないから、労働に向いてる時期って一年で二ヶ月くらいしかないのではないか。もちろん、労働に向いてるような日は、もちろん遊ぶのももっと楽しくできる日なわけだから、わざわざ労働なんて体に悪いことしてないで存分に遊んだほうがいい。
今晩の読書会に向けて働くことについて考えておこうとTwitterにてきとうに書き流していった。僕はどうも140文字に収めることができない。自分で書いたものは書いたそばから他者となり、その遭遇に驚いて連想が拡散していく。つまり僕のTwitterの使用法とはほとんど僕のこの日記と同じだ。だからあとからツイートをそのままコピペしてもだいたい違和感がない。
僕のフィルターバブル内からの景色だけかもしれないけれど、この数年で「働きたくない」という声が「働かせてほしい」という声に掻き消されているような感じがある。それだけこの国というやつが働きたくても働き口がないくらい貧しく困窮していたり、制度的に疲弊していたりするということだろう。働かないと立ち行かない世において問題なのは、しかしそれでも「働き口がないこと」よりも「働かないと立ち行かないこと」自体だろう、と言いたい。今の世で働けることがどれだけ特権的で恵まれたものだとしても、働きたくなさを否定することはしたくない。なので僕の望む経済施策とは、みんなが働ける社会ではなく、みんな別に働かなくてもいい社会を目指すものである。賃労働は社会参画ではない。ただの生命維持の必要を満たす行為であり、そんなものしないでも生命維持の要件が満たせれば別のことしたいじゃん。
しかし働くことについて考えられたのはここまでで、今日の僕は寒暖差もあって自律神経がまいっておりだいぶ多動だった。仕事中に立ち上がってエリちゃん(シンデレラ)のように歌い出したり、踊ったりしていたし、本もたくさん読んでいた。僕は多動なとき真っ先に映像が見れなくなり、次に音楽、最後に本が読めなくなるのだが多動な時の方が読めることもある。特に複数の本を濫読するのは頭の中が忙しく混沌としている時の方が捗りさえうる。読書とはその静的な見かけと違って多動や注意力散漫と相性の良い行為なのだ。場合によっては。
『落語ー哲学』を読み終え、YouTube で志ん朝の「文七元結」を聴き涙ぐみ、それから何冊かのザッピングを終えて実話怪談。この週末に楽しみな約束があって、教えてもらった『脳釘怪談』の一巻を読み終えた。もう落語と実話怪談のことしか考えたくないモードになってしまう。
この世では、日は東から昇り、西へと沈んでいく。
しかし。
朱雀門出『脳釘怪談』(竹書房文庫) p.221-222
実際には、日は昇って、いない。日、つまり太陽は地球の周りを回っていないのだ。地球が自転していて、その地球に乗っている自分の見えている方向に太陽が来ているだけなのだ。
しかし。
日は昇って見える。また、沈んで見える。
本当にそう見える。そう実感、しているのだ。
このように、実感、しているものと、真実、(と呼ばれているもの)は、同じであるとは限らない。 世界とは、本来、“なんだかわからない”ものだ。
なんだかわからない、いまだ全貌の明らかではない世界、を、目や耳や鼻や舌、そして皮膚(の上の様々な感覚器)という頼りなく十全ではないセンサーで捉え、そんな不十分な情報を神経で処理し、偏った取捨選択をする脳で解釈している。
伝聞も含めて、そんな解釈を積み重ねたものが、その人の世界観だ。
だから、あるときに解釈した現象が、その人の世界観と矛盾することは、充分に起こり得る。矛盾しているということは、どちらかが間違っているのだろうし、極端な例だと、どちらも間違っているということもあり得る。
しかし、このような矛盾が起きているという状況は、こう言い換えられる。
あり得ないことが起きた。
あり得ないことが起きた……と思われる不思議な体験。それが怪異体験だ。
僕が本を読む理由、あらゆる作品に触れる理由はほぼここに要約されていると言っても過言ではない。僕はつねに他者に驚かされていたい。他者の環世界の異様さ、わからなさに揺さぶられていたい。この半月足らずの俄か怪談マイブームの浅さで何を偉そうに語るのかと僕自身思うが、実話怪談とは自分の環世界からは到底測れないような別様のそれとの遭遇譚なのであろう。まったく異質の環世界はすぐ隣の友人や同僚や家族からもたらされるかもしれない。そうした近接はしているのに不可知な別の世界認識の可能性を前に、慄き、混乱し、必死に解釈を試み失敗する。そこに実話怪談の快がある。怪談に触れると誰かと会いたくなる。週末のおしゃべりが楽しみだなあ!
と言いつつ、今晩もお喋りができるのだ。『働くことの人類学』の読書会。Discord で音声のみでのやり取りで、間合いの取り方がすこし難しくいつも以上に話しすぎてしまった感じがある。「働く」や「仕事」という言葉は実はかなりその指示対象が曖昧であり、話し合うあいだでの合意形成がほとんど不可能だからどうしても対話には困難が伴う。たとえば、お金を切り離して考える是非、やりがいというものをどう捉えるか、人間関係というものへの距離感、などなど、そもそも「働く」という言葉に不可分に内包されていると前提している事柄からして個人間でだいぶ異なっている。そうした困難をも面白がれるいい会だったのではないかと思う。でもどうだろう、喋りすぎたかも。自分のコミュニケーションにおける圧力がどれくらい強いのか、いまだ測りきれてない感じがある。要するに今の世の中にゃ「文七元結」が足りてねえんだ、という気持ちに終盤はなっていた。