昨晩のイベントについて。ジャンルというのは「どのコンテクストを引き受けているか」の区別であり、SFもホラーも一見強固な文脈に規定されているようでいて実は節操なくあらゆる外部の文脈を勝手に引き受けることができる場なのかもしれない、憑依されやすい体質というか。その感じやすさが面白い。近代小説というのか純文学というのかそのへん僕はわからないのだけど、一般に「小説」としてイメージされやすいものはむしろ自身の文脈にガチガチにとらわれている。ジャンルものだからこそ分類不可能なものの場所を仮設することができるのかも、みたいなことを考えた。
きょうはなんだか一日冴えない。日記本のチェックをしていて思っていたよりは少ないとはいえ誤字脱字は見つかるもので、それを拾っていくように読んでいく。今日は三分の一程度。はやく『怪異の表象空間』の続きを読みたいのだけれど、今日はもう自分の日記を読むだけで集中力が終わってしまった。自分の本のチェックをしていると他の本が読めない。これはジレンマだった。
読み返すとやっぱり自分の日記は面白くて、たとえばCOVID-19 の話は一月くらいから出ていたはずなのだけど、日記には三月になってようやく出てくる。その直前くらいに東浩紀の「アクションとポイエーシス」が言及されていて、いままた読み返してみると今でも面白い。2019年末時点で東浩紀が「いまやアクションの画一性こそが、ポイエーシスの多様性を塗りつぶし始めている」と指摘した事態は、パンデミック以降ますます進行している気がする。
これはきわめて具体的な話である。この数年、日本でも若い世代の作家やアーティストが政治的な発言を行うことが増えてきた。署名の呼びかけやデモへの参加表明もめずらしくなくなった。それじたいは歓迎すべきだろう。
東浩紀「アクションとポイエーシス」https://kangaeruhito.jp/article/11923
けれども、そのアクションの舞台はたいていはSNSである。SNSを舞台にするかぎり、そこには必ず効果の測定が入り、数の競争が生まれる。そして、SNSで歓迎される文体、リツイートや「いいね」を効果的に引き出す表現やリズムはそもそも限られている。結果として、多様な作家をフォローし、多様な知見の投稿を楽しみにしていたはずが、それぞれの作家が効果的なアクションを目指したばかりに、いつのまにかタイムラインは判で押したような画一的な政権批判の言葉と、同じ政治家の発言、同じニュースのリツイートで埋め尽くされることになる。――本誌(「新潮」のこと)の読者にも似た経験をしているひとが少なくないと思うが、それがいま日本のSNSで現実に起きていることである。いまやアクションの画一性こそが、ポイエーシスの多様性を塗りつぶし始めているのだ。SNSの出現は、『人間の条件』の条件そのものを変えてしまったのである。
Twitter にいてもしょうがないな、と選挙前後は特に思う。
