2021.11.18(2-p.166)

『怪談前後』読み終え。面白かった。「私」だの内面だの、「社会」だの公共だの、「文体」だの言語だのという話はおよそ百年前にはある程度出尽くしている感じがあって、いまインターネット上でインターネット以後の事象のように語られることの大半は明治でやってる、にも関わらずそのコンテクストが十全に把握されないまま、当時新規なものとして導入されたものが所与のもののようにして受け入れられてしまっている地点から物事を考えてしまうところに現代の困難はある。

「私」に特権性を認めない、私小説でない自然主義の記述の方法として、自己をもひとつのデータとして扱おうというような態度を要請するものとして柳田の方法論を読み解いていくというのが面白かった。民俗学というものを、なにかしらの学問体系ではなく、文芸の試行錯誤として把握する。僕は小説をあまり読まないけれど、それはまさしくこの「私」の強さに辟易するからで、たとえば滝口悠生の人称のあやふやさや、柴崎友香の語り手の視点のある種の「貧しさ」にぐっとくるのは、そうした「私」の強さから抜け出るような書き方であるからなのだと改めて思う。

農政学者としてのキャリアどころかそもそも柳田國男のことはこれが初めての本くらいなのだけれど、大塚の描く柳田のありかたというのは色々と面白くて、今よりマシな社会の運用というものを考えていくと、やはり「私」の固有性を一度括弧に入れて、距離をとったうえでの記述法というのが確かに必要な気もする。当事者性というものへの微かな違和感みたいなものの正体というのはここにありそう。個々人の利害というのは二者択一で決するものではなくて程度の問題として調整していくものだのだという話は昨晩の対談でも出た話題だったけれど、個人の利益の総和の最大化ではなく、全体の利害の調和をこそ実現したいと考えるとき、個人の「私」というものに過剰に価値づけしてしまっては立ち行かない。「私」はどうしても「私」の利害に自閉していくものだからだ。近代社会というのは「私」の確立とともに始まり、いまのようないわゆる新自由主義的なあり方というのもこの「私」の肥大化と相関している。そのようなことをこの二年くらいはずっと考えているような気もする。

日記をわざわざ毎日書いて、しかもそれを人目につくところに配置するという行為自体が、非常に肥大化した「私」のやることじゃないかと自分でもツッコミを入れておきたいが、しかしこの日記において僕の感情だったり気持ちみたいなものは基本的に天気や体調の話として点検の対象となるように書いているつもりだし、僕は僕を面白がるのは手近によくよく観察できてその観察が及ぼす作用をも自分で責任をとっていける都合のいいのが自分だからというだけで、怪談やゾンビを面白がるのとあんまり変わらないような気もするけれどたぶんこれは格好つけすぎというものだろう。僕はエゴサも好きだし鏡を見るのも写真に撮られた自分の姿を見るのも好きだ。それは自分に関心のある対象についてあらゆる角度から検討できるいい機会だから、というのが近い気がする。自分でないフィルターを通じて自分を確認できるというのは非常に面白い。しかしここまで自分に関心があるというのは、やはりナルシシズムの一種な気もするけれど、しかし僕は自分が好きだから関心があるのかというとなんだか微妙な気もする。僕は自分のことはわりあい好きだけれど、それとこれとはまたちがうことな気がする。どうちがうかはうまく言えない。自分を対象化して点検してみようという面白さと、自分のことを好ましく思う気持ちとでは、自分というものとの距離がちがっているということだろうか。そんなこと、知ったことではないですね。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員。プルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、「家」の別のやり方を模索するZINE『ZINE アカミミ』などを制作。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。