東京で流れている、『巨人の星』や『あしたのジョー』を利用した広告が嫌いだ。数十年か後、自分にとって大切な作品がこのような形で醜悪にこすられることを考えるとゲンナリする。なんも届いてない人に、なんの気遣いも払われないさまは、悲しい。
日記やポッドキャストの感想をたまにもらうと、ああ、人はほんとに自分の読みたいもの、聞きたいことを勝手に受け取っちゃうものだな、と感心することがある。あるいは上記の広告や、別の作品の感想でもいい。僕の日記はセルトーのいう「密猟」の意識的な実践のつもりだけれど、あきらかに読解できていない、あるいはろくに人の聞いてない人たちの、そんなことまったく言ってないじゃん、というような、受け手のなかで想起された脱線話を、まるで読み聴いた話として発せられているのを見ると、戸惑ってしまう。ひとまず作品を他者として受け取ろうとすることすらせずに、些細な言葉尻だけをフックに自分語りを発動させてしまうこと、それこそが「密猟」なのだとしたら、僕は密猟者にもなれそうにない。他者を安易に自己に取り込もうとする暴力的な鈍感さ。誰かの語りと、自分の語りは、区別しておくべきだ、とどうしても思う。僕は他者は他者のまま面白がりたい。せめて人の話は最後まで聴きたい。それがとても難しいことであることも、よくわかっている。
今朝はラウ・アレハンドロを聴きながら行きの電車で日記を書いている。天気のよくない朝だから、こんなに愚痴っぽい。
シネコンで『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』。アメリカに馴染まない作家の映画を、味気ないシネコンで見るというのはなかなかよい。どうしようもなくアメリカが描くフランス。憧憬も偏見も敬意と区別しようともせず、あらゆる偏愛をカメラの前に配置し、切り取り、並べていく。ウェス・アンダーソンの映画は、いつだって格好いい雑誌のようだったな、と気がつく。生まれてきた場所や時代を間違えた、という思いを抱き、理想郷などないとわかっていても、抗いようなく「ここではない場所」を求めてしまう人たちにとって、稀覯本のような映画を撮り続ける作家。ある人の人生があり、それを書き留める人があり、書かれたテクストは生殖によらない親子関係をいくつか遺していく。生の持続ではなく、心のありようを後継に託していくようなエピソードを描くとき、この監督はとびきりの景色を見せてくれる。これまでの作品の好きなところを全部載せみたいな映画で、大好きだった。
移転後のモンスナックでカツカレー。中央公園を経由して初台まで歩く。fuzkue でたっぷり本を読む。『世俗の彼方のスピリチュアリティ』を半分くらい。とてもいい本だ、見田宗介というよりも真木悠介を思い出していたら名前が出てくる。セルトー論もあるらしい。楽しみだな。金柑スカッシュおいしい。それから〆のチーズケーキを頬張りながら『なめらかな社会とその敵』の数式をぜんぜんわからんなと読み飛ばす。数式、シュミュレートを記述する言語として大変便利なのはわかるので読めるようになりたいという思いがないわけではないが、あまりに馴染みのない言語だ。
帰りの電車の暖房で汗びっちょり。音楽はもちろんジャーヴィス・コッカー。なめらかな社会を引き続き斜め読み。数式の連打でまじめに取り組む気持ちが挫けたらしい。さっさと終わらせたいかのような読み方だった。
