連休の後半はiPhoneで日記を書いていたから、MacBookを開くのはずいぶん久しぶりな気がする。キーボードというのはすごい。僕にとっていちばん遠くまで行ける道具はこれだな、と思う。僕は主観としてはずいぶん長い間、ポッドキャストの履歴を見ると三月末ごろから、不調というか、自分が自分で面白くない。僕は自分で自分を面白がるために自分を生きているところがあるのでこれは死活問題だ。今の僕は僕の知らないことを見せてくれない感じがあるというか、既知で息が詰まりそうで、未知への好奇心というか、ひらかれというか、これまで考えたこともないような考えに体ごと持っていかれるような経験がない。
この日記も録音も、もとからある手札を切っているだけという感じがあって、手応えがない。今日配信の青木さんとのおしゃべりも、僕は録音しながら、ああ、なんて僕はつまらないんだろうとすこししょげていたのだけれど、他人事として聞き直すと素朴な悩みが素直に話されててよかった。実はこういうのでいいのかもしれないというか、本人の独りよがりな納得感よりも、このくらい素朴なほうが受け手としては楽しいのかもしれない。なにも突飛なことを言わなくたっていいのだ。自分では「今回あんま面白い話できてないかも」と感じながら録音した回ほど、あとから聴き返すとこれまで考えてきたことが端的にまとめられていて面白かったりする。自分にとって既知のことだけだと本人は楽しくないけど、誰かの未知ではありうるという当然のことを何度も何度も忘れる。おしゃべりの効能は未知の獲得ではなくて既知の再確認にある。当然のこととして不文律になりかけている自分の偏りを掘り起こして、もう一度点検するのが面白い。特に青木さんとのおしゃべりはお互い「うんうん」と言っているばかりな気がするのだけど、終わる時には自分の輪郭がすこしはっきりとするような心持ちにもなる。分かりきったことを何度も話すというのは、かなり大事なことなのかもしれない。
そんなことを考えていたらマルジナリア書店で「失われた“雑談”を求めて」が実演されると知って、あの企画が具体的な場にひらかれるの、すごくよいな、と嬉しくなる。いつだって雑談が足りない。面白くもなければタメにもならない、ぼんやりとしたやり取りが。
「奇談書屋」のツイキャスのアーカイブを見ていて、雑談欲が高まるのを感じる。と同時になにかを作りたい気持ちも久しぶりに湧いてくるようだった。僕は今、怪談作家になりたいと半ば本気で思い始めている。その場合筆名はどうしようか、まあこのままでいっか、などと僕はあくまで形から入りたいようだ。
久しぶりの賃労働はほんとうに気分が塞ぐ。憂さ晴らしにFGO のストーリーガチャを呼符でぽちぽちやっていたら、ネロちゃまがきた!これで宝具5だ!ストーリーガチャ単引きというのは、確率を知らない愚か者のすることだとインターネットの先人たちに言い聞かされていたが、あんなのは嘘っぱちだとわかった。嬉しい。と同時に、これでもはやこのゲームに思い残すことはないな、という気分にもなってしまいすこし寂しい。ひとまず溜まったコインでアペンドスキルを開けて、レベル上限も110まで解放した。しばらくはレベル上げが楽しみにはなるだろう。
