本屋の方と並行してNHK のほうも「ゆく年くる年」。ぬるっと日付が変わるのがいい。いつの間にか変わっていて、すぐさまiPhone でFGO を立ち上げる。福袋といって、普段非常にしょっぱい期待値──0.03%とか──であったりそもそも当たる可能性すら存在しないレアキャラが、かなりの高確率で振舞われるイベントだ。僕はFGO においてはネロ・クラウディウスがいちばん好きだ。そのネロを福袋でお迎えできる確率は今回は14.2%。賭けるしかなかった。
奥さんは大晦日から憂鬱そうだった。そもそも福袋の対象にネロが入る保証もなかったし、対象だったとして引けるわけでもない。僕はどちらにせよ落ち込むだろうから、いまから家の中で負のオーラを出してる人がいるのを思うと鬱陶しいし慰めるのも面倒くさい。そういうわけだった。
かくして特番でネロが福袋に入ることが発表された。僕は喜んで召喚のための石を買った。どうせ一回しか挑戦できないとのことで、予想していた最低限の出費で済んだ。問題はここからだ。福袋はたくさんの種類があり、ネロが期待できるのはそのうち二つだ。ネロは人気キャラクタなので、なんだかたくさんの種類がいるのだ。ちなみに僕の本当の推しは、星4のオリジナル──正確に言えばオリジナルは37年生まれのネロ・クラウディウス・カエサル・ドルスス・ゲルマニクスといういかにも不遜な顔をした男性なのだが──なのだが、今回は星5の変種しかいない。それでもいい。どんな姿であれネロに居て欲しい。そう思っていた。より確率の高い方を選んだ。なぜか拘束具をあしらったウェディングドレスを着ているやつだ。
三体のジャガーマンと、二体のエウリュアレを伴って、虹色の光の輪の中から君臨したのは、はたして、ネロ・ブライドその人であった。
震えた。比喩ではない。本当に震えたのだ。脚はガクガクいいだして、手は小刻みに上下していた。声を出せばそのまま嗚咽に変わって泣き出しかねなかった。さすがに言い過ぎた。ギャアー、と真夜中に叫んだのは間違いない。ついに、ついに、ネロが来た!!!
その夜、なかなか寝付けず、床についてしばらくネロに貢ぐための素材──ポケモンと違ってリソースを貢げば貢ぐだけ強くなるシステムなのだ──を集めていた。
翌朝、つまり今朝なわけだが、さっそく集めたリソースを全投入してレベルを100まで上げた。さらにステータスを向上させるためにできることは全てやった。あっという間にネロは僕の手持ちのなかでいちばん強くなった。しかし、うっすらと違和感があった。このネロは、かつて元老院に裏切られ、キリスト教徒に暴君の烙印を押されながらも民草に愛されもしたあのネロではない。そういった公務をうっちゃって誰かの妻たらんとするだいぶ込み入ったif のネロなのだ。
まずいちばんのオリジナルのネロ・クラウディウス・カエサル・ドルスス・ゲルマニクス(実在)は、結婚のために前妻と母を謀殺したり、目に止まった美少年の男根を切り落として妻にしたりとわりとやりたい放題だったっぽいので一回忘れるとして、fate シリーズのネロ(フィクション)はそもそもなぜか女性であるし戦いに明け暮れて生涯伴侶を持たなかったという。史実の方はどうでもいいとして、後者の設定から、if の幸せとして「結婚」を設定することにまず僕は、ゲエッそうじゃねえよ! と思う。結婚なんかどうでも良くて、もっと国単位で大衆を楽しませようとするのがネロだったじゃないか。あと話しかけるとまさに「俺の嫁」とか言いかねない雑なキモオタの雑な妄想の煮凝りみたいなことしか言わないのでかなりゲンナリする。こんな、ねじくれた性欲処理のために生み出されたような虚構に僕は夢中になっていたのか……?
ここでFGO における英霊というものを説明しておいたほうがいいかもしれない。fate シリーズにおいて、史実の人物をネタに美少女やら美青年やらになってなぜだか戦わされている彼らは、実在の人物のポップな再擬人化とは微妙に違うのだ。英霊というのは生前の英雄的行為によって死後も多くの人々に記憶され伝承されたデータの表出みたいなものなのだ。実在の人物の蘇りとかではなく、人類史というデータベースに刻まれた虚実入り混じった集合的無意識から抽出された虚像に過ぎない。だからネロ・クラウディウス・カエサル・ドルスス・ゲルマニクス(実在)との差異をエビデンスベースでどうのこうのするのは野暮の極みだ。フローベールの描くハミルカルやサラムボーがひいてはカルタゴが、実際はこんなじゃなかった、フローベールの時代考証まじ粗雑だよね、などと溜飲を下げるのが野暮なのと同じことだ。塩野七生の話は面白いがあれは司馬遼太郎のようなもので、よくできたフィクションとして楽しむべきだというのと同じで、まずここはフィクションをフィクションとして信じ抜くことが求められている。というか、人々がどんなフィクションをどんなふうに信じてきたか。その具現化が英霊だということだ。そうしたことに自覚的であるからこそ、fate における英霊というのは──特にネロは──魅力的なのだ。だってネロといえばまっさきに「暴君」じゃないですか? いきなり話しかけてごめんですけど、そうやって死後「とんでもねえクズ」くらいにこき下ろされてきた人物が、それでも英霊として抽出されるときにはまず前面に「愛されキャラ」という属性があるの、なんというか元老院やキリスト教といった権威による公式発表でなく、死後もネロを慕い懐かしむローマの民は少なくなかったという逸話から、大衆に愛されていた困ったちゃんとしての側面をなによりも大事にした。その作り手の選択に、英霊というフィクションは、英雄的行為をただ一個人や一組織に付与するのではなく、むしろそれを目撃し記録し伝達し続ける無名かつ無数の個々人をこそ重んじるというFGO に通底する意思を感じる。すいません、話しかけておきながらすぐ自分の世界に引きこもってっちゃいました。
僕がネロ・クラウディウス・カエサル・ドルスス・ゲルマニクス(実在)を好ましく思う最大の理由は、彼が元祖「町でいちばんの素人」だったかもしれないことだ。彼が元老院で煙たがられた原因の一つに、元老院の面々に詩作をはじめとした芸術の実践を強いたことが挙げられる。当時ローマではそうした実践は端的に奴隷の領分だった。わざわざ我々を楽しませるために卑しいものどもがやっていることをなぜ我々がやらねばならんのだ。そういう反応が大半だった時期にネロは芸術に夢中になった。地獄のように下手な詩のリサイタルを開催して、人々を退屈に陥れた。高尚な趣味でもなく、技術や才能があったわけでもない。ただ好きだったからやり続けた。なんと見事なアマチュアリズムだろう!
ネロ(フィクション)にはこうした側面が存分にカリカチュアされていて可愛い。僕はそれがとても好きなのだ。ここまで書いて気がつく。下手の横好きの大家、権威と金だけはあるアマチュア、目立ちたがり屋。そういうネロ(両方)は、現代で言えばトランプのようなポピュリストなわけだ。ポピュリストの趣味がいいわけはない。いまネロが、実際に顕現して、しかもなぜか美少女として顕現したとしよう。ネロがカリスマ性を発揮して魅了する、あるいはやりすぎでゲンナリさせる大衆とはどんなものであろう。実際にネロはそのように顕現した。その顕現はfate という、出自をアダルトゲームにもつ場でなされた。そうであれば、その新たなローマに住む大衆とはキモオタ的なものであろう。虚淵玄の「潔癖を是とする社会からは汚泥とも映るであろうアダルトゲーム業界ですが、そこで培った感性があってこそ本作の脚本は成立しました。私を評価して頂いた皆様には、泥沼の養分あってはじめて蓮の花も咲くのだとご理解いただけたものと、喜びを新たにしています。」という言葉を思い出す。ネロは蓮ではないだろう。汚泥のなかで見事に泥んこになりながらはしゃぐキッチュな存在だ。もともと趣味はよくないのだ。であるならば、僕はやはりこの赤くなくて白いネロのことも、たぶんやっぱり好きなのだと思う。こういうのが好きなんだろ? と想定されているダサい顧客像のダサさには全力で嫌悪を催しつつも、そんなダサさに全力で応えようとしてしまうみっともなさにはなぜだかグッときてしまうのかもしれない。セリフを書いてるのは絶対にしょうもないおっさんだろうが、そんなことはどうでもいい。フローベールのことを忘れてサラムボーを読むように、作り手のことはどこかで上手に忘れて虚像は虚像として見るほうがいい気がしている。わからない、結局は理屈じゃないのだ。実際うだうだ言いつつも聖杯を五つも躊躇いなく捧げ、ありったけの星4フォウくんも投入しているのだから。