2021.01.05(1-p.365)

きょうはfuzkue に行くと決めていた。昨日の夜からうきうきしていたが、明確なお尻の時間があり、がっつりどこまでも、というわけにはいかなかったので、それでも最大限がっつり読むために、この時間まで起きなければまずいという時間ぎりぎりまで寝ていた。 起きてコーヒーを淹れて、きょう読む本を吟味する。フローベールにぶっちぎられた小島信夫は持っていくとして、移動中はアーレント、メインは『商人たちの共和国』に決めた。副題は「世界最古のスーク、アレッポ」。スークとは「市場」を意味するアラビア語だ。

とにかくスークの経済の一つの大きな特徴としては、南アメリカの伝統的社会を研究した、P・クラストルの結論に近いものを導き出すことができるであろう。彼はそこに、権力の集中に反する政治的秩序を目指す、〈国家に抗する社会〉を認めている。それに続くのはこの若くして逝った人類学者の、美しいコメントである。あらゆる文明は、醜い過度の集中を抑制する、節度ある叡知を備えていた。このひそみにならっていうならば他ならぬスークが、資本の集中に反する経済的秩序を目指す、〈国家に抗する市場〉であるということはできないであろうか。国家に抗するという表現も、この場合国家の統制、管理に抗するという意味であり、それは現在のシリアにみられるように、国家の権力基盤を揺るがすようなものではなく、むしろそれを補強する役割を果たしうるのである。

黒田美代子『商人たちの共和国[新版]』(藤原書店) p.201

国家の管理からはみ出したインフォーマルな経済、『都市を生き抜くための狡知』を思い出すが、スークはインフォーマルとも言い切れない、かといってフォーマルでもない、第三の経済を担う。著者はそれを伝統経済と名指す。僕はここにグレーバーの「人間経済」を思い出す。利益の増幅ではなく、人間関係の持続を目的とした経済。

着いて、こんにちは、と言う。お気に入りの、奥から二番目のカウンターの席に陣取る。電車で読んでいたアーレントをやりつつ、メニューを捲る。バインダーじゃない、と思う。巻頭の挨拶ににこにこする。改めて、すごい躍進、すごいメニューだ、と思う。ここまで他者への信頼をもって協調を提案するモノはなかなかない。よりいいお店になっているなあ! と思う。その一方で、バインダーの後ろの方にまとまっていた、これまでの試行錯誤の歴史が読めなくなってしまったのは、やっぱり少し寂しい。

体が冷えやすい身として、最初に白湯をいただけるのがいつも嬉しい。浅煎りのコーヒーと鶏ハムのサンドイッチをお願いして、片手でぱくつきながらアレッポに分け入っていく。めちゃくちゃに面白くて、グレーバー『負債論』におけるイスラーム圏の評価と響き合う。利子を厳格に禁じ、国家と経済を明確に峻別していた商人たちの理知。黒田美代子はその理知が90年代半ばにいてもなお健在であったことを記録している。商業倫理とは、生き方そのものである。仏教経済やキリスト教経済というものは存在しないが、イスラーム教は最初から経済活動と密接であった宗教であると黒田は言う。経済とは国家の暴力的で抑圧的な管理機構に資するものではなく、あくまで諸々の人間関係ひいては宗教的達成に資するためのものであった。利益の追求といった利己心は、だからそのまま共同体への貢献を欲望することになる。

鶏ハムのサンドイッチに付け合わせでついてるピクルスがやけに美味しくて、こんなに美味しかったっけ、と思う。もっと食べたかったので、席を移動するタイミングでジントニックとピクルスをお願いする。ソファ席を贅沢に使い、どんどん読む。

スークにおいては、定価というものがほとんど機能せず、うかつな観光客には吹っかけ、常連には茶を振る舞いながら値切り交渉に気前良く応じていく。一物一価という近代資本主義の原則は、たしかに便利であるが、それは個々人や個々のモノの差異を捨象して、画一的な価値体系に押し込めるものでもある。黒田はA・K・センのエンタイトルメント──〈なにものかを獲得するために必要な資格、条件を提供すること〉──という概念を援用してこう書く。

このような簡単な予備的考察を加えたあとで、スークの伝統経済について検討してみることにしよう。ここにおいても、定価らしきもの、括弧付きの定価が存在することは既に述べた。交渉を重んずるといっても、すべてのケースでこれが繰り返し行われなければならない訳ではない。しかしその経済は成り立ちにおいて、取引において交渉を基礎とする構造性を持っている。まずそこは、少なくとも価格が貨幣の法衣をまとって君臨する、価格ベースの場ではない。端的にいってそれは、買い手、消費者の要求に基礎を置くエンタイトルメントを基軸とする〈需要ベース〉の経済である。価格ベースの経済はしばしば、商品の品質に関してその体系独自の要請に従い、〈一定の基準〉を設けずにはいない。ごく卑近な例を取ってみよう。ここではキュウリは、まっすぐでなければ基準に合致したことにならない。その基準に合わないものは、ひとも、ものも、排除される。まっすぐなキュウリを買えない者、曲がったキュウリを買いたい者は、曲がったキュウリ同様に場外に退去を命ぜられる。年収三万ドルの社会では、この規格は維持可能であり、同時に意味のあることなのである。エンタイトルメントの高い人々は嗜好、流行に従って、商品のスタンダードをこのようなかたちで吊り上げ、それが消費社会の存立の一つの基盤であったりする。まっすぐなキュウリでは例にふさわしくないかも知れないが、それがまた皮肉にもこの社会の経済を、間接的に活性化するのに役だったりする。曲がったキュウリは、十分に食用に供される価値があるにも拘わらず、流通から排除される。
これに反して伝統経済は、曲がったキュウリを堂々と流通に乗せるシステムであるといえよう。ここではひとにも、ものにも一定の基準などは課されない。基準が存在するとすれば、それは複数の、あるいは種々雑多な基準であるとしか いいようがない。そもそも消費者の要求、エンタイトルメントには無限の多様性がある。これに目を閉ざして商品に基準を設けるとは、なんたる横暴かといわんばかりに、ここにはありとあらゆる等級、種類の品々が殺到する。これまで専ら研究者たちは、スークに現れる商品の不透明性、それに関する情報の不完全性のみに注意を払ってきた。これは交換という側面からみれば、四角四面のお世話焼きということになるであろう。商品たりうるものが、市場で売られる。売買が成立することが第一で、その理由づけは副次的な問題である。要はスークとは、ひとの参加が最大限に開放されているように、ものの参加も最大限に開放されている市場なのである。
とはいえ消費者は、そこで商品の等級、種類について考慮せずに買物をしている訳ではない。価格が絶対でなく、売り手と買い手が現物を前に交渉する場面を持つということは、買い手が自分の欲望、享受するエンタイトルメントの多寡に応じて、売り手と交渉しうることを意味する。再三述べるように、ここでは商品に定価が存在しないと同時に、その流通に強い制限が加えられることもない。つまり商品の一つ一つは、固有の等級、品質を持っている。ひとがそれぞれ固有の資質、力能を備えているように、そこではものもみなそれぞれの個性を持っているのである。もしくはそのようなものとして、立ち現れる。消費者は、それぞれ自分の嗜好、財力に応じて商品を物色し、可能な範囲内で交渉にけりをつける。消費者の需要の多様性、これに対峙する多様な商品という複雑を極める回路を結び付けるためには、交渉は最も有効な手段なのである。このような意味で需要ベースの流通、交換においては、消費者のひとの側面が強調され、媒介者として定価といった無機的なものでなく、商人というひとの存在が要請されるのである。

同書 p.213-215

キュウリといえば絶望団地の希望だが、それはともかく、自由というものをフルフラットであることと混同し、老いも若きも性も相対化し、画一的に市場価値としてだけ測るような新自由主義的価値観と比べて、一つとして同じものは存在しないし、一人として同じ人間は存在しないという前提に立ったアレッポのスークのなんと人間的でおおらかなことか。本書の新版の刊行時、近代資本主義の拡大の論理に巻き込まれたアレッポが徹底的に破壊されたことを知る僕は、読んでいて資本主義の別の仕方を見るような希望とともに、こんなにも美しい文化を荒廃させた国々の傲慢に絶望しかけるほどのつよい憤りを感じる。

仕上げに深煎りのコーヒーとチーズケーキをいただく。もう帰らなくては。すばらしい本を一冊、はじめから読み通すくらいの時間、ここにいられたなら満足かな、と思い、会計。カウンターには『プルーストを読む生活』が積んである。阿久津さんにへらへらお礼を述べて、買い手は自分の欲望、享受するエンタイトルメントの多寡に応じて、売り手と交渉しうる。本のぶんのお金を上乗せしてお支払いする。「うお〜、なんでだろう、なんでだろう、なんだかもっと払いたくなった…!」と心底思われたからだった。階段のところですこしお話しする。めちゃくちゃ格好いい本になりましたねえ…! と言ってほんとうに嬉しそうに目を細めてくださる。えへへ、と応える。帰り道、ずっとふわふわした気持ちでいた。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。