入稿から印刷までの数日間がいちばん具合悪くて、呼吸が浅くなり、動悸もする。みんなこの手持ち無沙汰に不安と向き合うほかない時期をどうやり過ごしているのか気になる。今回はまだサンプルだけだから失敗しても取り戻せるというか、そのためのサンプルなのだけれど、すでに文字通りドキドキしているから昨晩はダンベルを上げ下げしたり、ダンベルを抱えながら腹筋をしたりしてどうにかぐっすり寝たのだが、寝起きの身体の重さたるやすごくて、すわ病気かと慌てたが、あたりまえに筋肉痛なのだった。寝坊気味だから白湯だけ飲んで出勤。僕の日記は、と思う。こちらが余裕がなかったり不安に苛まされているようなときこそ、ごきげんそうな饒舌になるな。たぶんなんの不満もないようなときの僕は、退屈しのぎになにかしら鹿爪らしいような顔をして難しそうなことを言いたがるが、これは元気が有り余っているからそれを発散しようという、要は寝付きの悪い子供が夜中にじれったくなって吠えるのと同じようなもので、ごきげんな文章というのは、自分がごきげんであることよりも、ごきげんであることがなによりであるとよくよくわかっていることのほうが重要で、だから精神的な具合としてはすこし追い詰められているくらいのほうがいい塩梅の日記を書く。『プルーストを読む生活』のころが顕著で、あれは自分で自分をあやすようにして書いた。いまは書かずとも機嫌がいい日も増えてきて、そのぶん日記がいかめしくなる。僕はどうもいかめしく振る舞うことをギャグのように思っているというか、真面目くさった顔をしているというのは、それだけでどこか馬鹿げたことなので、元気があるとふざけたくなって真面目ぶるが、しかしこれは誰にも伝わらない可笑しさで、僕が必死にごきげんを保とうと格闘するようなこういう日記のほうが読んでいるとほっこりしたりするだろうか。
いまは来週の録音のために蟹の親子『浜へ行く』を読んでいて、ひとの日記を読んでいると自分の日記も長くなるのかもしれない。あとこれは午前のうちに書き出しているのだが、夜にまとめるより一日のなかに日記の時間を散りばめたほうが楽しいものになるのかもしれない。寝る前はとにかく歯磨きのようなタスクのひとつになってしまうようなところがある。家にいるとメリハリがなくて日記の時間を偏在させるのが難しいのだけれど、すこし工夫したほうがよさそう。
また二カ月分くらい溜まってしまっていた「読書日記/フヅクエラジオ」を一気に読む。本屋ロカンタンがなくなった、という記述に指先まで冷たくなる。あれこれと検索をかける。ホームページのカレンダーは一月で止まっており、阿久津さんの日記は2月17日の記述で、Twitter 上では2月5日の時点の、お店の形をしている姿が確認できて、でも閉まっていた、という内容のツイートがアップされており、別の人が18日に投稿した写真の様子は確かにがらんとしていた。自転車はあった。どういうことなんだろう、萩野さんが無事ならいいが、と悪い想像ばかり暴走してしまう。あらゆることがインターネット上に告知されるというわけではない。お店も人もいきなり消えうる、ということを考え、背中からつめたく粟立っていき、脈が静かにはやくなり、おもわず「う」と声が出た。青木さんとやりとりのなかで、ひとまず連絡を入れてもらうことに。友人の母親の訃報を目にして、きょうはなんだかつらい知らせが押し寄せるようだ。
