いま22時19分くらいだ。異様に眠い。夕飯のあいだ目を開けているのが精一杯だった。だから日記もそんなには書けないだろう。仕方のないことだ。人は眠い時は眠ったほうがいい。30分仮眠を取ったがそんなことでは眠い時は眠いままだ。眠くない時はそもそも仮眠など取らない。奥さんは隣にいるはずなのだがおそろしいほど静かで不安になって確認するとこの前サイゼリヤでもらってきた大人向けの高難易度間違い探しを凝視していた。子供向けとされているものですらあの難易度なのだ。大人向けとなったらもはやなにが正しくて何が間違っているのか、そもそもことの成否を個人が判断することなどほんとうに可能なのか、印刷における微細な差異と、データ上で意図された微細な差異との見分けはつくのか、そんな境地に至っていやしないだろうか。眠い時に必死に打鍵すること。そうしてできてくる文字列は酔っぱらっている時のものに似ているが酔っぱらっている時よりも酔っぱらっているようにも思える。頭がぼんやりして平衡感覚がないような感じになるから文字の並びも芯がなくて締まりがない。これは日記だから今日のことを書きたいが、もはやいまのことしか書けない。奥さんは今度は布団のまわりの片付けをはじめて、いろいろと収納の試行錯誤をしているようだった。けさは電車ではアーレントを読んだ。アーレントはなんだか電車でしか読まないがきょうはアーレントは平等と同一であることとは全然違うんだ、平等とはお互いにちがっているからこそ成り立つのであって、労働に都合のいいように画一化されてしまってはもはやそこには平等はないんだというようなことを言っていてたいへんによかったのだが、これが『アーレントのマルクス』でも強調されていたアーレントにとっての「社会」は公共ではありえないと言うような話のひとつの要点であると言う気がするのでそう言うことを書きたかった、眠たくなってしまった、しかし眠たいなりにこうして書いておいた。差異がなければ、というよりも、個々人のユニークネス、唯一性みたいなものがあって初めて平等というものが問われてくる、規格化された同一性に回収されてしまった「労働する動物」は同一性はありえても平等はない。あれ、これはもう書いたか。酔うと同じ話を何度もすると言うが、酔っている時は一回一回が真剣なのでこうして素面の時にはそんな自覚は持っていない。酔っている時の記憶をなくすと言うのは僕は方便だと思っていたが、大学生時代帰省の折、高校の同級生にお前酔った時電話かけてくるのやめろよと言われて愕然とした。そしていまこれだけ眠たいと僕ははたして素面と言えるのだろうか。現実から乖離してふわふわする心持ちはだいぶ酩酊に近い。しかしじっさいのところ正直になるならば、ここまで書いてきてだいぶ目は冴えてきた。奥さんはいま丁寧に靴下を畳んでいる。いやしかし、靴下だろうか。いつもと違うところにしまったように見えた。あれはなんだろう。書き終わったら訊いてみるというほどでもないから、特に訊きもしないけれど、奥さんはこの日記をすぐに読むだろうからきっと教えてくれるだろう。もう寝てしまいたいが、髪を洗いたいのでお風呂に入る必要があった。目が冴えてきて助かった。
