増刷、それは根拠もなく信じること。とくに勝算もないというか、むしろこれまでの傾向からするともうこれ以上うごかないんじゃないかというタイミングで千部近く刷ってみて、まず思ったのはそういうことだった
零細個人出版をやっている人とおしゃべりしたいなと思う。生活のなかで個人としてリスクを取る機会ってじつはなかなかないことのような気もして、本をつくってさらに増刷まで決断するというのは、最悪というわけではない現状に甘んじないで、もっとよくするために試行する練習になるのではないか。暮らしを立てられるほどの稼ぎではない営みとして何かをつくるとき、その人がどう在庫と付き合っていくのか、その各々のスタンスについて聞いてみたい。覚悟というほど大したことでない、楽しさと軽さを維持できる塩梅の探りかたについて。個人制作は趣味に近い営みかもしれないが、書店とやりとりするのであればそれはどれだけ乏しい稼ぎであれこちらも仕事であるというシリアスな自覚は必要だ。しかし、ほっとくとすぐにシリアスになりすぎてしまい、そうなると楽しくなくなる。「ここまでは軽やかにやれる」という範囲をどう見極めるか。そういう話をきいてみたい。
先日の透明書店のイベントで内沼晋太郎さんが「ZINEやリトルプレスの作家の多くは趣味の延長線上に制作があるという側面もありインボイスを登録するインセンティブじたいが乏しい場合がある。対して書店側は仕事なわけで、とても難しい」というような発言をされていた。もちろんこの通りではないだろうが、ともかく、インボイス制度はこのような趣味/仕事のグレーゾーンを二者択一に塗り潰し、「なんだかよくわからないもの」の余地を削ぐような最低の制度であるという認識がはっきりしたように思う。
たとえば、本屋側から「どうせただの遊びで、お客さん気分なんでしょ」という構えで対応されて、非常にさみしい気持ちになることが、これまでも極たまにだがあった。僕はどれだけ趣味的であろうとも健全にどちらも儲けるような活動としてやっていきたいので、「商売のつもりではない」という予断で警戒されてしまい建設的なやりとりにならないのはいやである。しかし、これは個人作家全体の商売マインドやセンスをどう上げていくかという問題とセットであり、実際ただ楽しければいいだけで金勘定はなんかやだ、という層も多いとも思うから、どうしたらいいのかはさっぱりわからない。
損するかもしれないというリスクをお互いの領分で引き受けて、得できるときはちゃんと分け合う。それが健全な商売。個人での活動の場合、リスクをとるのはとっても不安で怖いかもしれないけれど、一方にリスクだけ担ってもらうというのは虫がよすぎるし、「商売じゃないから」は言い訳にならない。とくに、現行の制度下ではここはある程度シリアスに考えざるをえないだろう。
このようなことをうだうだ書いていたら蟹の親子さんが反応くださって、個人通販の場合は住所を公開する必要があるけれど、自宅を開示するのはいやだから、書店の住所を名義貸ししてくれるようなサービスがあったら利用したいという旨の投稿で、これはほんとうにあったらうれしいなあ、と感じる。どのように本屋と利益を分け合えるか、本を卸す以外の方途もあっていい。たとえば電子版とかも、個人で売ることには興味が湧かないけれど、販売を書店が代行してくれてそちらにお金が入るならやりたいなども思う。
そもそもなぜこのようなことを考えているかというと、ミシマ社の「一冊!リトルプレス」に登録してみたからで、これまでは本をつくったりそれをだしにして人に会いに行くための出費はあれども、ここまで純粋に売る体制作りための出費というのは初めてのことで、いろいろと思うところがあったのだろうというか、上のようなことを思ったのだった。
歴史の〈法則〉や〈必然性〉は、状況と欲求によって外面的・内面的に規定され性格づけられた人間たちの実践そのものをとおして自己を貫徹してゆく。もちろんこのような言いまわしじたい、つまり、〈法則〉や〈必然性〉が、人間たちの実践をとおして自己を貫徹するというような表現じたいが、ほんとうはすでに物象化された表現であるにすぎない。事実はこの逆に、歴史的に性格づけられた人間たちの無数の実践が、その連関の総体において、諸個人の意志からは独立した一定の巨視的な帰結を生み出すのであり、あとからこの巨視的な帰結の展開をそれ自体として観察すると、あたかも一つの自己展開する〈法則〉や〈必然性〉等々として、あるいは〈摂理〉や〈見えざる手〉や〈理性の狡智〉等々として意識に表象されるのである(Marx und Engels 1845-46 ほか)。そしてこのように、人間たちの実践を外面的・内面的に規定して〈性格づける〉その歴史的条件じしん、それまでの諸世代の人間たちの実践のこのような〈帰結〉以外のなにものでもない。
人間は歴史を身にこうむることをとおしてみずからの歴史をつくり、歴史をつくることをとおしてまた歴史をその身にこうむる (Sartre 1960)。
しかしこのように人間たちの実践そのものが、歴史的総体によって状況づけられているとするならば、人間の〈自由〉とか〈主体性〉とかは、どこへいってしまうのだろうか?
けれどもこのような問題自体が、またしても〈自由〉とか〈主体性〉というものを、欲求によるその具体的な内容規定から捨象して、なにか〈それ自体〉として実在するもののごとくに物象化してとらえることの結果にすぎない。
音楽の好きな少年にとって、彼の欲求するままに音楽に没入できるということが具体的な自由なのであって、彼がなお〈音楽が好きだ〉という欲求にとらえられ規定されている以上、〈真に〉自由な主体ではない、などということは、自由の意味を空虚化する観念の遊戯にすぎない。
すなわち歴史の〈法則性〉と人間の〈自由〉、いいかえれば歴史における客観性と主体性とを、ア・プリオリに対立せしめるアンチノミーは、一方では歴史の〈法則性〉を、現実の人間たちの実践から抽象し物神化してとらえるところに、そして他方では人間の〈自由〉や〈主体性〉を、現実の人間たちの欲求による内容規定から抽象し物神化してとらえるところに派生する、いつわりの問題にすぎない(詳細な展開、とくにこのような〈自由と必然〉のアポリア自体の知識社会学的な基盤にかんしては、 Lukács 1923, S. 170-355 廣松 一九六九)。
それぞれの時代の人間たちは、その時代の具体的な不幸のなかから、具体的な欲求と願望を結晶化することをとおして、その時代のかなたにユートピアを構想し、このユートピアを媒介として、次の現実を形成していく。 「存在がさまざまのユートピアを生みだし、このユートピアが存在を破壊し、次の存在の方向へ向かってゆく」 (Mannheim 1929/邦訳三一六頁)。
ユートピアは歴史に内在し、そして歴史を超越する。ユートピアとはこのような、〈歴史〉の自己超越的な構造に内在する一契機である。
『定本 見田宗介著作集Ⅶ 未来展望の社会学』(岩波書店) p.45-47
個人でできるよき未来の社会実装について考えていたら見田宗介がきれいに定式化してくれていた。この社会は、マクロな構造によって規定されるミクロな個人という把握の仕方と、ミクロな個人の欲望の積分として誰もが予測しない方向へと向かうマクロなうねりという世界観とが並立しており、このいずれもが偶然にいまこのようにある。これを事後的に抽象し物象化したときにはじめてきれいに整頓されたもの──必然的な帰結のようなもの──の見かけで現れるのである。
売れるから増刷することもあるかもしれないが、多くの場合は、必ずしも売れる保証はなく、それらが売れてもうすこし多くの人に読まれるという状況に向けて増刷するわけで、だから増刷はそうであってほしい未来を具現化するステップなのだと思う。
https://x.com/tomodaton/status/1725766987157242055?s=46&t=P8naJHLI5UvXF4TGuRLbuw
「増刷はそうであってほしい未来を具現化するステップ」という友田とんさんの言、よいな。「そうであってほしい未来を具現化するステップ」ってすごくいいな。たとえば僕は元気がないときほど先々に人と会う約束をしがちなのだけれど、これもまた「そうであってほしい未来を具現化するステップ」だ。先の見田を引いて考えたユートピアというものも「そうであってほしい未来」の謂いだ。個人たちは、この社会の構造や歴史的条件によって性格づけられた「そうであってほしい未来」への欲望に基づいて、それを「具現化するステップ」を地道に踏んでいくほかない。きょうは謎の行動力を持て余しているようで、日記もすでに三千字を超えているし、中学生のころから気になりつつ作ったことのなかったmixi のアカウントを取得した。僕の「そうであってほしい未来」は、たぶんここにはない。
夜は新宿で極私的に遠くから櫻井敦司を偲ぶ会。僕らが一歳の頃のBUCK-TICKの話がきけたり、だんだん脱線していってもなお大事な話が交わされるような時間で、ようやく自分の好きなバンドについてまた楽しくおしゃべりができた気がする。太陽時代の宝島の記事、制服のまま駆けつけた裁判、うちらの闇を百年前からわかってたモネちゃん。とても楽しかった。楽しい時間であることが嬉しかった。
