2024.01.11

早起きできるように午前の早い時間に予約を取っておいた美容院に向かうために電車に乗る。髪を切ってもらうあいだ、本を読むつもりだったがうとうとしてしまい、そのままさっぱりした。シャワーのとき軽く頭皮のマッサージがあり、あ、凝っているなと自分でわかる。

下北沢に出て、フヅクエへ。まずはiPad に落としておいた蟹の親子『脳のお休み』のゲラをPDF で読む。昨年のうちにいただいていたのだけど、ようやく読み出せる。これは日記屋月日の向かいのフヅクエで読みたいなと思っていた。静かに浜を歩きながらぽつりぽつりと話すのを聞くような気持ちになる。この人が使うペンネームは一見ただ変なだけなのだけど、そこに親子という言葉を含んでいることを考えてしまう。これまでの生を否定するのでも、これからの生を否定するのでもなく、いつかの死を受け容れるでもない。ひとつの身を過ぎ去るもの、その脳に去来するものたちを正と反に腑分けするよう求める声からきっぱりと距離を置き、ただ思い出す。読みながら『バートルビー』を思い出していた。最近読んだからである。というか、最近やたらあちこちで『バートルビー』を読む。カフカと『バートルビー』は便利に召喚されすぎじゃない? と思う。まあともかく、バートルビーに託されがちな、静かで、決然とした拒否の身振りのことを想起して、けれどもすぐに打ち消した。バートルビーは書くことさえ拒否したけれど、蟹の親子は記述し、憶うことは手放していない。頭蓋を連想させる浜の岩陰の向こうで、蟹が何かを思っている。それが書かれる時、そこに一人分だけの肯定がある。たった一人分の。そこには、それまでその体が見て、聞いて、嗅いで、触って、思われたことどもが、あらゆる価値判断を宙吊りにされたまま、ただある。

読み終えて、散歩がてらトイレに立ち、戻ってからは文芸誌を読む。ふだんであれば読まないものを義務として読む。ふつうに楽しくない。しかし、だんだんわかってきた。これは作品単発で読むものでなく、作品間に意図せず描くことができてしまう星座であったり、通時的な文脈であったりを読むものなのだろう。であればこれから毎月読んでいくうちにどんどん楽しくなっていくということだから、楽しみだ。

帰宅後、図書館で借りた下澤和義『現代社会の神話』を、手元の篠沢秀夫訳『神話作用』と訳文を比べてみる遊びを行う。ここは、というところを音読して奥さんに聞いてもらう。すべてがみすずの「プロレスする世界」が良いというわけでもなく、平易で読みやすいからこそ原文レベルでの何言ってんの? が際立ってしまうこともあり、篠沢訳の「レッスルする世界」全体的によくわからない感じのほうがなんとなくのカッコいい雰囲気で押し通すことができている部分もある。図書館では岡村正史『「プロレス」という文化』も借りてきていて序文を読んでみると立花隆のプロレスへの悪口が酷くて笑ってしまう。「私はプロレスというのは、品性と知性と感性が同時に低レベルにある人だけが熱中できる低劣なゲームだと思っている」んだってさ。今晩は去年の七月の葛西純とエル・デスペラードがタッグを組む奴をみて大はしゃぎしていた。奥さんはデスマッチを見るとお腹痛くなる、とげっそりしてしまい、日本のホラー映画とジェットコースター並みに身体にストレスを受ける……と土色の顔で恨めしそうにこちらを見るので申し訳なかった。それでも声に出さずに葛西コールが鳴り止まない。もっと観たい。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。