なんか夢中になりたいなと思い昨晩から読み始めた『プロジェクト・ヘイル・メアリー』が面白くって、やっぱり面白いと評判のものは面白いなあと嬉しい。これはセールのタイミングでKindleで買っていて、間違いなく面白いものが必要な時のために大切にとっておいた小説で、『火星の人』の作者の新作だということ以外は何も知らないままでいた。それで最近なにもかもが面白くない気分で、これはよくないな頃合いかなと読み始めたのだが、もう気持ちがうきうきしている。いきなり一章まるまる奥さんに読み聞かせたり、るんるん気分で鼻歌を歌い出すので、あなたってほんとうに楽しく読んでさえいればごきげんなんだね、と呆れられる。あなたはわたしを看取る気満々だというけれど、だったらわたしが死んだ後にも楽しくなれる本を見繕っておくべきだね、というので、あなたがいなくても楽しく読める本などないだろう、と思う。本を楽しく読むにはまず生活が安定していて、心配事や悲しみが少ないに越したことはない。そういう生理的な部分が満足していてようやく本は読める。沖縄で温泉に浸かりながら青木さんと話していたのだが、僕たちはチヤホヤされて育った。だからチヤホヤされることにそこまで執着がない。チヤホヤされることを目的に据えたことがない。だからチヤホヤを求める人には平気で譲れるというか、要は承認みたいなものを求めて何かをするというのが実はあまりよくわからない。そういうのはもう足りているのだ。だからべつの何かを燃料にしなければ動けない。僕はたとえば楽しく本を読むために書く。あるいは、奥さんが書いて欲しいと言ってくれるから書く。書きたくないのに。ここ数日はほんとうに日記が億劫で、でも寝る段になると奥さんが日記、日記、日記、ねえ日記はまだ? と騒ぐので書けた。この日記は中身が詰まっているとよくない。読む人が書かれていることを離れて連想や脱線に遊べるだけの隙がなければいけない。いけないってことはないけれど。抜けが良いほうがいい。この文字列はチヤホヤを求めないし、チヤホヤもしない。ただあるから読む人もただいることができる。放っておくから勝手にしてもらって構わない。ただ、さあ楽しませてもらおうじゃないの、と受け身で踏ん反り返られても無視するからそういう人にとっては無礼だということになるだろう。知ったことではない。僕は好きな人と暮らし、その人に適度に放っておかれたままにこにこ本を読んでいたい。
うきうきした気分のまま『Chants of Sennaar』というゲームを遊ぶ。このゲームの面白さはアンディ・ウィーアーの小説のそれとどこかで通じている。
