半袖とカーディガンで家を出る。上着の脱ぎ着が不要であるというのはこんなに快適だったかと新鮮にうれしい。着膨れないからリュックの肩紐を調整する。指に汗が滲み指紋認証が通らなくなってきた。公開を前提に日記を書き始めたころはほとんど生活の記録に関心を払わず、抽象的な考えごとのほうを集中的に書き残すようにしていたし、じっさい読んでくれた人から「日記に擬態した評論めいたもの」であると看破されたこともあるが、いつしかただの日記然としてきた。そしてそのとたんに本の形にまとめることへの意欲がなくなってしまった。読み返してみるとすでに本にまとめたところからしてすでに日々の記録めいてはいるのだけれど。たぶんこれは書く姿勢の話で、所感に重心を置くか、叙事に傾けるかのちがいであり、僕は昨今のただ見たままを描写すればよいという風潮には微かな苛立ちめいた違和感をもってもいる。
とはいえおそらく加齢ゆえだろう。日々フィジカルな変化に敏感になって、メタフィジカルな方面への関心が薄らいでいくようなところもある。意味もなく和訳して繰り返すならば、形而下の身も蓋もない出来事のほうに振り回されて、形而上学的な思索よりも優先するようになっているということだ。これもまた『プルーストを読む生活』のころからそうだったとも言えるが、まだあのころは益体もない思考の遊戯の結果あらわれる理論めいたものの実装を、ただ疲れたというようなことだけで台無しにする肉体への憤りが残っていたはずだ。いまではもう、疲れることのできるこの体の賢さのほうにこそリスペクトがある。ただ、やはり言語によって開発され、耕され、毀損されるこの精神というか心というかそのようなもの、メタフィジカルな構築物のほうにこそ惹かれる性質は変わらないようにも思う。むしろこのどうしようもなくある肉体への関心も、そうした形而上の制作物の成立要件への探求心に動機づけられているのではないか。体はそりゃあるだろう。それを土台としながら素材としても使いこみ、メタな位相に構成される自我というものこそが不思議だ。
などとごちゃごちゃ書いてきたが、素朴に『プルーストを読む生活』の時期は奥さんと僕だけしかいないような自閉の仕方をしていたのが、本にして出してみたら友達ができて外向きにひらいていったということなのだろうとも思い至る。これはけっこう驚くべきことで、友達なんかいらねえ、作品との相互作用に全霊で取り組め、というような気持ちでいたはずが、本を作るとどんどん友達が増えて、僕はそれにかなりはしゃいだのだ。そんな友人のひとりにRyotaさんがいる。プレゼント企画で昨年一年分の『群像』が当たり、全号を律儀に通読したうえでものを書いた文集『群像一年分の一年』のデータをかれからいただいて、合間の時間に読んでいた。付録として『群像』を読む最後のひと月の日記が載っていて、僕の話も出てくる。人の日記に登場するのってとびきりの喜びだなと思うし、こうして文章で読むとすごく仲良しに感じられるから面白い。Ryotaさんとは『雑談・オブ・ザ・デッド』というZINEを共作した際に立ち上げたDiscord サーバーで連絡をとりあっていたのだが、最近はあらゆるSNS経由の連絡を見落としがちであるのでLINE に切り替えてやりとりを続けた。奥さんとの連絡はSlack だし、定期的に動くLINE は実家か、あるいは編境の棚主グループくらいしかない僕は、つねに他愛もないLINE をやりとりするような友達に憧れがあったが、すでにいたのかもしれない。別の場所でやりとりしていただけで。
『群像一年分の一年』に掲載されている文字列は、いちどnote で読んだものなのだが、縦書きでまとめ読みするとだいぶ感じが変わる。「色々な本を読んでいると、たまに思わぬところで繋がるから面白いよね」というような、当たり前で素朴な感想を堂々と言いきる、という可笑しみが全編に通底していて、しかしそれこそが読書の嬉しさではないかと思わされる。リーダビリティも高いし、気配りも効いてる。当然のことしか言っていないようでいて、どこか変。とても魅力的な本な気がする。友達の本って絶対に目が曇ってるというか、友達が本を作ったというだけでなんだか嬉しいから評価が難しいけれど、たぶんいい本。僕はこのような友人を持ち上げるような界隈の感じに「ケッ」と思い続けてきたので、いまだに知っている人の本は読みづらい。どうせ楽しいんだもん。まあ、ダメなものははっきりとダメだとも思うのだが。つきあう人としての好悪と、作品のよしあしとの区別くらいはつくはずで、だからやはり自信をもっていい本だと言ってもいいのではないだろうか。いい本です。
たとえば文字から立体を再構成するのが苦手であると吐露するくだりがある。『群像』を毎月通読すると言いつつ、斜め読みで済ませるところもあるのだと。このような、本読みであれば「知ってるよ」「そりゃそうだよ」みたいな事柄が惜しみなく開陳されていて、そのカッコつけなさが爽やかで格好いい。そして、そういったある程度の経験を積んだ読書家にとってみれば当たり前のようなことが、あえて言語化しないからこそ共有可能であることに実は確信が持てていなくて、だからこうして読めるのが嬉しいみたいなところはあるだろう。「自分だけじゃなかった」と安心できるというか。この衒いのなさには、ちゃんと読まなきゃというような読書に対する鹿爪らしい規範意識を緩ませる効果がある気がする。
夕食の後は、奥さんと遊ぶ。仲のいい兄と妹が一緒に遊んでいると空想の世界と現実のあわいが曖昧になって、いつしか家に帰れなくなりそうな事態になっているのだが、とにかくいつまでも楽しそうでにこにこしてしまうゲーム。タイトルはわかんない。ミニオンや『moon』みたいに、ヒトも動物たちも喃語のようなナンセンスな音で喋るのがかわいい。ミニゲームが手強い知育玩具みたいでいちいち面白いし、負けるとめっちゃ煽られる。動かす絵本だ。ゲームはこういうのがいい。いつまでもいじっていたくなる。