なんかもういっそ遊んじゃわないと無理なんじゃない? なんだか開き直ってきた。遊ぶ予定をねじこむために手帳とDynalist に一カ月分のスケジュールとタスクを書き出してみたのだけれど、それだけで漠然とした圧迫感はだいぶおさまる。週単位の予定をさらに一日のなかに数十分単位での用事にまで割って配置してみると、案外なにもない余白も多くあることに気がつく。予定を書き出すことは、むしろこの空白の時間を発見し、ほっとするためにあるのだろう。まだ遊べる!とそのスペースを嬉々として埋めがちなのは、いいんだか悪いんだか。
そろそろ憂鬱の種にもなりそうだったのだけれど、今月届くはずの文芸誌はなんだか楽しみな作品がいくつかあるようで、これだけ素直に楽しみに待ち遠しいのは五ヶ月目にしてはじめてだ。でも、やっぱりちょっと来てほしくない。読みたい本を読んでいたい。読むべき本を読みつつ、読みたいものを読むために、読む速度がどんどん速くなっている感触がある。じっさい三日に一冊読めばいいほうだったのが、今では倍くらいのスピードになっているような気もする。読む速さなんて読むものに依存するのだから、冊数はあてにならないのだが。どんどこ量を読むような時期には、とにかく読み易い文章がありがたい。ふだんは読みにくいというか、読み手に高い負荷をかけてくるようなものを好んで選ぶから、読み易いような文章はそれだけでなにかつまらなさとまでは言わないが物足りなさを感じる。けれども、もっと読みたい、どんどん読みたいという欲望は、さくさく先へ先へと読めるような本のほうが満足させてくれる。読み手としての堕落であるというか、甘やかされているという疚しさもないではないが、べつに苦労して格闘するように読むのもただ自分が愉快だからしているだけで、それはそのように書かれたものに甘やかされているのだから大した違いがあるでもない。どちらもいい遊び場である。いまのうちに読みたいものを読んでおく。
美術批評家・美術史家のマイケル・フリードは、その著書『没入と演劇性』(1980年)の中で、18世紀のフランス絵画に起きたある変化を取り上げている。それは、当時のフランス絵画で「鑑賞者」という存在が問題視され始めたことに起因する変化だった。
議論の前提になるのは「絵画は人に見られるものである」という認識だ。どのような絵画も、人に見られるために描かれている。しかし、画中の人物が見られていることを前提に描かれてしまうと、その絵は途端に芝居がかったものに見えてしまう。そのため、画家たちは絵画を「見られるために存在するもの」ではなくする必要に駆られるようになった。そしてその目的を果たすために、「絵の前から鑑賞者を消去する」という方法を模索することが、当時の画家たちの共有する課題になったとされる。
もちろん、ここでいう「消去」とは物理的なことではない。そうではなく、作品の前に立っている鑑賞者と、鑑賞者が見ている作品が切り離されたかのような感覚を生み出すことが目指されたのだ。フリードはこの感覚を「究極の虚構」と呼んでいる。
原田裕規『とるにたらない美術 ラッセン、心霊写真、レンダリング・ポルノ』(ケンエレブックス) p.194-195
見られていることを意識するぎこちなさ。そのような演技する肉体をフィクショナルに立ち上げること。絵画の表面を客席なき舞台としてこしらえることで、それを鑑賞する手前側のわれわれは自らをないものとしてただ目になる。
フリードは、これらの議論を「没入」と「演劇性」という対概念から説明している。もともとこの2つの概念は、ミニマリズムを批判するためにフリードが用いたものだった。それによると、ミニマリズムの作品は周囲を歩き回る鑑賞者の存在を前提としているために、鑑賞者の存在が加わることで初めて成り立つ「演劇的なもの」になっている。しかしこの特徴は、モダニズムが目指す自律性に反する。作品はそれのみで成り立っておらねばならず、自らに没入していなければならないとフリードは主張するのだ。この「作品が自らに没入した状態」のわかりやすい例が、先に述べた「シャボン玉を吹く人」や「深く悲しんでいる人」の絵だった。そして繰り返せば、自らに没入した作品を前にすると、鑑賞者はまるで自分自身が消去されたように感じるのだ。
同書 p.196(原文強調傍点)
客席のない場所で演技すること。僕の場合フリードのように「演劇性」と対比せず一元的に演技と呼んでしまう、作品の自らへの「没入」が観客にもたらすものとは、観客が日常において抱えている自己の感覚の消失である。ホモソーシャルのはしゃぎを描いていたころのクドカンのドラマを見る視聴者は、「まるで自分自身が消去されたような」感じをこそ楽しんでいたのではないか。まるでこちらの都合や階級など知ったことではないと自閉的に振る舞う虚構の人物を見ることで、日々の煩わしいあれこれに重たくなったこの自己をいっとき脱ぎ去ること。それはBL漫画を主人公たちの部屋の壁として窃視するするにして読む態度に似ている。これこそがドラマ鑑賞の快楽ではなかったか。『不適切にもほどがある!』は、近年の多くの制作物がそうであるように、社会を描くつもりでただいたずらに鑑賞者の自意識を過敏にするようなものになっていたのではないか。それはおそらく、自己消去の欲望の対極にあるものであった。
現在の作品や言説というものはどこもかしこも鑑賞者を消去せずに顕在させるばかりであり、これは文字を公にするという権能が市井にひらかれていることに関係しているのだと思う。誰もが誰かに読まれうる文書を作成できることと、誰もが誰かの表白を、自己と他者との関係において感受してしまうことは地続きだ。けれども、おそらく作品と個人の関係とは、むしろ没我的なもの、あらたな自己の開発のために自己を投げ出すようなものとしてこそなにものかでありえたのではなかったか。
そんな難しいことのさらに手前の素朴な欲望として、生活や労働の煩わしさを忘れてただ目の前の出来事や事象に夢中にさせてほしい。もうなにも考えたくなどない。
