「OVER THE SUN」を第一回つまりEp.0 から順に聴き始めて、すごく好き。TBS ラジオの匂いというのがあって、僕はほとんどTBS しか聴いてこなかった。あとは車中で流れていたZIP-FM。そう、地元ではJUNK も聴けなかったんだか途中までだったんだかで、僕にとってカーボーイも夜電波もまずはポッドキャストだった。ジャケというのだろうか、ポッドキャストのメインイメージの元ネタであろう『ブックスマート』も観た。『レディバード』の友達の子が主役の一人で、すごくいい顔をする。ギークやナードのための童貞映画というジャンルがアメリカにはあるが、それを女の子たちが奪取する映画。ずっとハイで問題ばかり起こすのだけどなんだかんだいいヤツでこいつがいなければ物語が動かないような奇人、生徒たちの憧れを一身に集めハメを外したい子供心にも理解を寄せる格好いい大人、主人公に意地悪なことをズケズケ言うが案外やさしい不良、そういうお約束のような配役もみんな女の子で、しかも男の子のロールを借りて演じているわけでもなく、ちゃんとその人らしくただあるようにして生かされていて、それがとても良かった。男の子たちの童貞映画では、クラスの人気者は嫌なやつで、主人公たちをイケていないとしていじめたりバカにしたりする「敵」として描かれたりもするけれど、この映画では誰も「敵」なんていなくて、みんなそれぞれに等身大で、気遣いや優しさを各々の持てる範囲でしっかし発揮しているのがいい。「敵」なんていないのだ。歓待を拒絶しているのは、自分たちの方だったかも、そういう爽やかさが終始あるのが好ましい。イケてるグループの価値観に無理に同化する必要はない、彼女たちには彼女たちのよさがあり、わざわざ「イケてる」方向に舵を切らなくてもいい、はっちゃけなくてもいい、むしろはっちゃけたいと思わされる呪いにこそ中指を立てるべきだ。そんなことも少しは思ったけれど、そんなことよりも、自分と異なる他者を最初から否定して自閉するよりも、素直にイケてることに憧れてみたりしながら自分の納得のいく立ち位置を探っていくような二人の姿勢のほうが、ずっと開放的なのかも知れない、と今は思っている。「敵」認定して蓋をするより、一回屈託なくイケてるのってイケてるなあ、と言えてしまう二人が僕はとてもすごいと思う。
でも実は観ているあいだはそんなに面白くなくて、というのも直前にグレタ・ガーウィグ版の『若草物語』を観て、冒頭から何度も何度も嗚咽を漏らすほどに揺さぶられていたからで、こんなにいい映画を観た後では何を観ても霞んでしまうだろう。我ながら酷な二本立てだった。観ているあいだずっと感情を揺さぶられ、理知を試され、絵の美しさに惚れ惚れした映画の方がしかしこうして書く言葉は少なで、その後クールダウンのような気持ちで消化した映画の方があとからじわじわ効いてくる、というのは面白い。映画に限らず本や音楽や料理も、その場では「ふーん」としか思わなかったものの方が後から言語化しようとすると褒めているようなことを書いたりするからわからない。その場ですぐに「いい!」となるものはそのとき十全に享受できているからこそ、わざわざ後から言葉を尽くして解明したり美化したり変容させたりする必要を切実に感じられないのかも知れない。
「OVER THE SUN」を聴いていると、最近は益体のないおしゃべりでしかない自分のポッドキャストもこのままでいいかもと思えてくる。放りっぱなしで脱線しっぱなし。なんだか楽しそうなバイブスの他はあまり何も残らないようなもの。おしゃべりというのはそれでいいはずだった。四姉妹の華やいだ話し声に何度わけもわからず涙が溢れたか。あのじゃれあうような親密さ。その尊さ。
僕も奥さんも幼少期から会話はキャッチボールではなかった。高校生の奥さんは友達から「会話でホームランだけ打ってたらよくないよ」と諭されるほどの強打者で、最初の頃はポッドキャストも二人でドッヂボールのように強めの球をぶつけ合っていたが、さいきんは議論の種があまりなくて、たらたらとしゃべってしまうのを二人ともどこか物足りなく感じているのだけど、じつはそれくらいでおしゃべりとしてはいいのかもしれない。そう納得しようとも思ったけれど、二人とも強い球を打ち合うのに快感を覚えるたちだから、やはり僕たちが戯れ合うようにしゃべるには強めの球が欲しかった。
