2024.12.25

はちたそさんが昔の日記本の感想を書いてくれていた。

https://bsky.app/profile/hatitaso.bsky.social/post/3le3io22z7s25

「わかってないことをわかってるように誤魔化す」というのは、生成AIの応答の仕方だな、と思って可笑しい。しかし、考えてみると読み書きに共感や理解は要らないともいえる。文法構造さえ把握していれば、話されていることそれ自体の文脈や語義や情感をさっぱり理解できていなくても概ね間違っていない要約と応答はできてしまう。わかっていないことをわかっていないままわかっているかのように振る舞えてしまう。だから言語コミュニケーションが好き。

そんなことを書いている今日は、奥さんの話すことにうんうんと相槌を打ちながら何にも聞いていなかったりして、数分後に、あ、あれをやらなきゃと口に出すと、だからさっき言ったじゃん!と呆れられるというのを連発していて、持論の確からしさを強めていた。

人間、変だし難しすぎてだいたいわけわかんないんだけど、言語のやり取りの上では、わかってるかのようなコミュニケーションが成立することを少なからず期待できる。これはかなり画期的で便利なことと思う。言語コミュニケーションにおいて、その成否はほとんど文法規則で定まるとして、やり取りのアクターである個体ごとの自我のようなものは不要というか、わかることを阻むノイズないし邪魔者にしかならない。わからないのに「わかったように受け答えできる=わかる」ようになるためには、いっそないほうがいいくらい。だからたぶんAIのほうが言語を使用する場合に関してはコミュ力が高い。言葉の操作において円滑に誤魔化せる部分というのはどこか非人間的であるはずだし、僕は読み書きの基礎の部分ではそうありたいとも思っている。

自我とか自意識とかのノイズのせいで、書いてあることを書いてあるままに読めなくなりがちな人間全般に対して何か言うには、どうしたら伝わるのか、ではなく、どういうとき伝わらなくなってしまうのかを考えたほうがいい。円滑にものごとを伝えるためには、まず相手の自我や自意識をできるかぎり取り除きます。

とはいえ、人一般は正確な読み書きのために生きているのでもない。AIのようにスマートにわかってるように誤魔化せない部分、駄々っ子のようなわかってあげたくなさにこそ、人間の旨味——自我と言ってもいい——がある。資本主義というのがここまで強固に機能しているのは、人間同士がコミュニケーションを成立させるためにお互いを非人間化することに対する躊躇いや違和感をかなりきれいに除去してくれる仕組みだからなのかもしれない。だとすると、人間らしさの復権を根拠に異議を唱えてもあまり効果はなさそうだ。もっと侵犯的でない形で非人間的コミュニケーションを実現しうるシステムを構想し、練り上げたほうがいいのだろう。

などと、人様のありがたい感想から好き放題に脱線してきたけれど、はちたそさんの感想で最もクリティカルなのは、〈柿内正午の強さは極論”奥さん”に嫌われなければノーダメなところ〉のほうなのだろう。じっさい僕はおそらく、駄々っ子のような不合理な存在としての人間らしさについては、奥さんとだけ交歓できればそれでいいと思っているはずだった。だからこそ、ほかの人間たちに対しては無感動に、わかるという誤魔化しを発揮できてしまう。

賃労働の現場での言語ゲームのプレイヤーとしての僕は、ほとんど哲学的ゾンビである。僕との打ち合わせは中国語の部屋とほとんど見分けがつかない。よくわかんないまま任意の言葉をタイミングよく発話しているだけという感じがする。そしてそれは少なからずバレているはずだった。会議の最中に限ってデスクの上にひらりと跳んでくるルドンがキーボードの上を闊歩し、画面共有しながらリアルタイムで編集していたエクセルにこう書いた。

これまでデリートキーを押したりはしていたけれど、文字は打鍵しなかった。ついに書いた!と嬉しくて、興奮を隠しながらメモに退避させ、エクセル自体はCtrl +Zで修復した。〈r4ンb-^、m「^〉ときたか。なるほどね。これはさすがにわかったふりが難しい。無意味だからだ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。