2024.12.24

昼、だらだら中断をはさみつつ半年くらいかけていた『演じられた近代』を読み終える。明治大正期、従来の共同体の形式であった幕藩体制が無化し、別様の郷土意識が要請される。〈日本国民〉というあたらしい共同体意識のよりどころは、西欧由来のリズムやメロディへと同化しようとするグローバリズムと、その対応として事後的に見出された土着の身体性とを折衷させるかたちで創造された、盆踊りのリズムやヨナ抜き音階のメロディとして結実する。このような身体性は、西洋の身体性と対照をなすものとして、一九六〇年代以降の演劇シーンにおいて「再発見」されるのだが、じっさいこれは近代以前への回帰ではなく、むしろ明治大正期の唱歌指導や徴兵指導によって成立した近代の産物であった。身体の近代化は不可逆の変質であり、反近代の試行錯誤は常に近代的なものであるほかない。このような近代の身体の黎明期において、発話と身振りの表現である演劇改良の蠢きは、現代にいたるまでわれわれを規定する〈国民〉の身体感覚の形成プロセスを表している。大谷能生の傑作『歌というフィクション』を再読したくなる。この本も参考文献に挙げられていたっけか。

歌舞伎から新派、新劇へという系譜の中で、末尾に位置づけられる小山内薫の演劇観は、検閲逃れのために台本を用意せず口立てでセリフを指示していた川上音二郎のにわか芝居のころから隔たって、テキストの優位性を疑わない。それはつまり、文字化された理念や観念の透明な媒介として身体を捉える発想であり、俳優の演技は観客の身体に普遍的な価値観を教え導く媒介としてあることが理想とされる。

近代の啓蒙家の態度とは、書かれたものの読み方を教え諭すという、リテラシー教育の発想である。書かれたものが絶対で、俳優の身体は手段にすぎない。だからこそ、小山内は従来の役者たちの演技の型にはまった泥臭さが気に食わない。小山内にとって、土地の癖がにおう肉体は、無色透明のテキストを阻害する不潔なものだったのかもしれない。普遍に至るためには、身体はイメージに対して従属的なものでなくてはいけない。

現在、活字を制作し発信するという行為が大多数の生活者に解放された結果、書かれたものの真理っぽさが薄れ、それらしさを担保する権威が失効していくかと思いきや、それとは反対に、〈戯曲→俳優→観客という美的コミュニケーション(啓蒙)のヒエラルキー〉の説得力は一面ではより一層強まっているような気さえする。人間はまだまだ書かれたものに真実らしさを錯覚してしまう。

啓蒙的なエリート主義が衰退しているというよりも、観客→俳優→戯曲という逆向きの回路もまた、ポピュリズムという形で強く台頭してきているというほうが合っている気がする。そのうえで、言語と身体を折衝する現場として発話や身振りといったパフォーマンスのほうへと再び関心が傾いてきているのも確からしい。盆踊りのリズムやヨナ抜き音階のメロディに替わる、あらたな共同性の徴となりえる身体感覚とはどんなものか。インターネット上のあらゆる配信、公共電波にのるお笑いのメソッドなどが、それらをぼんやり示唆しているといえるかもしれない。おそらくそれは何周目かの型への回帰なのではないか。型を否認しナイーヴに深奥を求めるのではなく、これまでとは違ったより汎用性の高いステレオタイプを新たに制作する。そのような型の制作に、俳優として身体からアプローチするのか、戯作者として言葉から関係するのか、あるいは観客として両者に触発されつつ自らの世界観を練り上げていくのか、もちろんこれは三者のうちからひとつを選ぶ類の問いではなく、相互作用の関係にある三項の、どこにどれだけの修正を試してみるかという配分の問題だ。どれかひとつに特権的な優位性をもたせてしまった時点でなんか変になる。

帰宅すると夕食はメリクリのすてきな雰囲気。鶏肉のソテーにバルサミコ酢をベースとしたおいしいソースがかかっているの、蟹とトマトのパスタ、ベーコンのスープ。プロレスの過去の名勝負を見ながらこたつで楽しく食事。なんだかすっかり年末気分。まだしばらく労働が続くの変な感じ。やめといたほうがよくない?

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。