昼、だらだら中断をはさみつつ半年くらいかけていた『演じられた近代』を読み終える。明治大正期、従来の共同体の形式であった幕藩体制が無化し、別様の郷土意識が要請される。〈日本国民〉というあたらしい共同体意識のよりどころは、西欧由来のリズムやメロディへと同化しようとするグローバリズムと、その対応として事後的に見出された土着の身体性とを折衷させるかたちで創造された、盆踊りのリズムやヨナ抜き音階のメロディとして結実する。このような身体性は、西洋の身体性と対照をなすものとして、一九六〇年代以降の演劇シーンにおいて「再発見」されるのだが、じっさいこれは近代以前への回帰ではなく、むしろ明治大正期の唱歌指導や徴兵指導によって成立した近代の産物であった。身体の近代化は不可逆の変質であり、反近代の試行錯誤は常に近代的なものであるほかない。このような近代の身体の黎明期において、発話と身振りの表現である演劇改良の蠢きは、現代にいたるまでわれわれを規定する〈国民〉の身体感覚の形成プロセスを表している。大谷能生の傑作『歌というフィクション』を再読したくなる。この本も参考文献に挙げられていたっけか。
歌舞伎から新派、新劇へという系譜の中で、末尾に位置づけられる小山内薫の演劇観は、検閲逃れのために台本を用意せず口立てでセリフを指示していた川上音二郎のにわか芝居のころから隔たって、テキストの優位性を疑わない。それはつまり、文字化された理念や観念の透明な媒介として身体を捉える発想であり、俳優の演技は観客の身体に普遍的な価値観を教え導く媒介としてあることが理想とされる。
すでに明治二〇年代の川上演劇によって方向が示されたように、新派劇が舞台化したのは、明治期に誕生したステレオタイプな〈国民〉表象である。近代日本のリズム感や身体感覚とともに形成された新派役者の身体が、大衆の身体と共振し、近代の国民大衆の共同性をリアルに表象したのだが、そのような舞台にあって、役者がどういうコンセプトのもとに役柄を演じるかは、少なくとも第一義的な問題にはならない。
たとえば、歌舞伎の舞台がバターン化された役柄の組み合わせで構成されるように、新派劇の舞台も、役者は一定のメソッドとして様式化された身体を演じることでその役柄になるのだ。新派劇の「芝居の型」を記述したマニュアル本が明治末年に出版されていたことはさきに述べた。「型」としての身体を演じることで役者は役柄として主体化されるわけで、そこでは舞台に立つ身体が、彼あるいは彼女の内面や自己に先行して存在する。
そのような演じる身体と、それが表象する主体(役柄)との関係を逆転することから、近代リアリズム演劇は出発する。すでに明治一〇年代末の坪内逍遥の戯曲改良論に先駆的にみられたように、役者にたいする戯曲の優位、身体にたいすることば(意識ロゴス)の優位が説かれ、戯曲→俳優→観客という美的コミュニケーション(啓蒙)のヒエラルキーが主張されたのだが、たとえば自由劇場の時代から築地小劇場の時代をつうじて、小山内薫が一貫して克服と改良を試みたのは、「頭脳の幼稚なる観劇者」(前掲「日本将来の劇」)であるとともに、新派役者や(新劇を演じる)歌舞伎役者の身体である。役者の身体がそれ自体として表象してしまう特殊日本的な不透明性を克服することから、「人間」の普遍性や「真理」を表象する芸術演劇としての新劇は出発する。
兵藤裕己『演じられた近代 〈国民〉の身体とパフォーマンス』(岩波書店) p.264-265
近代の啓蒙家の態度とは、書かれたものの読み方を教え諭すという、リテラシー教育の発想である。書かれたものが絶対で、俳優の身体は手段にすぎない。だからこそ、小山内は従来の役者たちの演技の型にはまった泥臭さが気に食わない。小山内にとって、土地の癖がにおう肉体は、無色透明のテキストを阻害する不潔なものだったのかもしれない。普遍に至るためには、身体はイメージに対して従属的なものでなくてはいけない。
こうした近代芸術の啓蒙のイデオロギーと、その背景にある普遍主義的な人間理解が、しばしば文化的・政治的な独善主義(ルビ:ユニラテラリズム)となることはいうまでもないだろう。「真面目な芝居」による民来の啓蒙という小山内の方針に、彼が心酔したスタニスラフスキーあたりを経由して受容された文化的スターリニズムの影をみるのはむずかしくない。(中略) 民衆を啓蒙・教化する「芸術」演劇というコンセプトは、容易に抑圧的なイデオロギーへ転化するだろう。大衆の前衛たる「知識人」によってその実現がはかられる理性主体の意識存在としての人間、あるいはインターナショナルなプロレタリアートといった普遍的な主体の理念は、リオタールが述べるように、思考と生の全体化という抑圧のシステムと表変するだろう。小山内が主張する「民衆の為」の「シリアス・ドラマ」は、彼が自然主義に傾倒した時期の演劇観、その大衆蔑視ともいえる「芸術」的モダンのエリート主義の裏返しだったといえる。近代芸術固有の啓蒙のプロジェクトと、その背景となる普遍主義的な人間理解、そして理念やイデオロギーを表象する媒体としての身体イメージが、小山内薫の演劇メソッドをささえた「近代」だった。
同書 p.260-261
現在、活字を制作し発信するという行為が大多数の生活者に解放された結果、書かれたものの真理っぽさが薄れ、それらしさを担保する権威が失効していくかと思いきや、それとは反対に、〈戯曲→俳優→観客という美的コミュニケーション(啓蒙)のヒエラルキー〉の説得力は一面ではより一層強まっているような気さえする。人間はまだまだ書かれたものに真実らしさを錯覚してしまう。
啓蒙的なエリート主義が衰退しているというよりも、観客→俳優→戯曲という逆向きの回路もまた、ポピュリズムという形で強く台頭してきているというほうが合っている気がする。そのうえで、言語と身体を折衝する現場として発話や身振りといったパフォーマンスのほうへと再び関心が傾いてきているのも確からしい。盆踊りのリズムやヨナ抜き音階のメロディに替わる、あらたな共同性の徴となりえる身体感覚とはどんなものか。インターネット上のあらゆる配信、公共電波にのるお笑いのメソッドなどが、それらをぼんやり示唆しているといえるかもしれない。おそらくそれは何周目かの型への回帰なのではないか。型を否認しナイーヴに深奥を求めるのではなく、これまでとは違ったより汎用性の高いステレオタイプを新たに制作する。そのような型の制作に、俳優として身体からアプローチするのか、戯作者として言葉から関係するのか、あるいは観客として両者に触発されつつ自らの世界観を練り上げていくのか、もちろんこれは三者のうちからひとつを選ぶ類の問いではなく、相互作用の関係にある三項の、どこにどれだけの修正を試してみるかという配分の問題だ。どれかひとつに特権的な優位性をもたせてしまった時点でなんか変になる。
帰宅すると夕食はメリクリのすてきな雰囲気。鶏肉のソテーにバルサミコ酢をベースとしたおいしいソースがかかっているの、蟹とトマトのパスタ、ベーコンのスープ。プロレスの過去の名勝負を見ながらこたつで楽しく食事。なんだかすっかり年末気分。まだしばらく労働が続くの変な感じ。やめといたほうがよくない?
