だんだん開いていないお店も増えてきて、年末を感じる。年々、年の瀬の大事さを実感する。仕事がとりあえず納まるような性質のものになったからというのも大きいだろう。みんなでせーので休むというのは大事なことなのかもしれない。どうしても休めない職種の人には三倍くらい払うようにしたほうがいい。
今年は、能登での震災で始まった。翌日の羽田空港での事故のニュースもあり、ひどいはじまりだった。そしておおむねろくでもないものとして終わっていく。社会への信は引き続き毀損され続け、それとは無関係に、私生活は劇的に充実していった。その引き裂かれがしんどかった。猫が来て、自らの恵まれた状況を、近しい人間だけの占有物としてでなく、この小さな生き物のために使おうと思えたことで、勝手に救われたような気持がする。もちろんこれは欺瞞だ。けれども、ここにいない誰かへの誠実さを貫徹しようとするあまり、守れたはずの私生活を毀損するようなナンセンスに陥るのもつまらない。猫によって人間にとって快適な生活リズムが乱されて疲れることは、とくだん何の贖罪でもないただの苦労なのだが、そうやって他者に直接的に暮らしが乱されることで、屈託なく紛れるものがある。ずっとこのままであってほしい、目の前のこの生の穏やかさをなによりも優先するというミニマルな保守思想。そのような狭量さを回路として、たとえば能登の猫たちのことにはじめて思い至る。生活の穏やかさが脅かされるという事態への強い情動は、守りたい生活があってはじめて成立する。知らない誰かへの身を切るような想像のためにも、いい人間でありたい。いい人間であるために、いい暮らしをしたい。いい暮らしというと、なんか拝金主義の気配がするが、しかしまあ、あまりに潔癖にその面を否認するのも不健康かもしれない。いい暮らしをしたいんだ、ということを、自らに認めさせる一年であった気がする。
今晩は奥さんも僕も出払っている。一九時が近づくと、そろそろ自動給餌器からごはんが出てくるな、ちゃんと食べるかな、と考える。夜の用事が楽しみな気持ちと、一刻も早く帰りたいような気持ちがせめぎあう。退勤後は軽く食べたあと飲みに出掛けて、お酒をやりつつ打ち合わせを兼ねたおしゃべり。来年も楽しみな用事が増えてきた。たくさん友達ができるといいな。
帰宅すると二階から気配を察知した猫が鳴いて呼ぶので三十分くらい一緒に遊ぶ。えび天の猫じゃらしを咥えて持ってきてくれるようになった。だからといって人間に振り回して欲しいわけじゃないらしく、また勝手にどつきまわして隅っこに追い詰めていく。好きにしたらいいよ。
