ベッド改造が、寝心地の改善につながったのか、それとも単に解体作業のくたびれによるものか、久々に大満足の快眠。七時前に気分爽快ぱっちり起床。奥さんも早起きで、ふたりで朝から一緒に朝食を摂る。新鮮な気持ち。奥さんはレッスンのために出社する僕よりも早くに家を出る。僕はきのうの夜に不足していることが判明した猫砂を買ってから出るため、奥さんを見送ってから、朝食後の二度寝に入った猫の寝息を聞きながら、書きそびれていた日記を書いて、かるく家のことをやる。労働日の朝にこれだけ起きていて、体が縦のままのんびりするというのはなんだか変な感じだ。しかし、ふだんからこうだったらすごくいいだろうな、とも思う。生活の起点を、朝に寄せたい。できることなら。明け方の猫の鳴き声で諦めて起きてしまえばいいのだが、どうしても眠い日のほうが多い。そしてそこで二度寝してしまうともう朝はない。難しい。
電車。Kindleで「カント哲学入門」と副題を付された岩波ジュニア新書、御子柴『自分で考える勇気』を読み始める。来月からの読書会の課題図書で、読書会自体は今月頭までの期間は引越しも重なってけっきょくいちども参加でいないまま終了したのだけれど、『哲学史入門』以来、俄かに高まるカントへの興味も相まってやる気いっぱい。
カントが自ら書いた『純粋理性批判』の概説書『プロレゴーメナ』をまず読むべきなんだな、と知り、中公クラシックス版をKindleでさくっと購入。中公版『プロレゴーメナ』に坂部恵が寄せた序文でも、御子柴本でまとめられた生い立ちを再読。同じような話を別の書き方で読むというのを重ねていくと、ようやく知識が知識として扱える。生地ケーニヒスベルク、この地名については覚えられる気がしないが、とにかくそこはドイツから距離があり、現ロシア領、バルト海に面する港湾都市であることは覚えた。時代を考えるに、辺境であることももちろん、交易で栄えたグローバルな都市文化に親しんでいたという点が重要そう。それはそれとして、坂部序文の以下の記述に、わあ、と思う。
一七六六年の初頭に、カントは、『形而上学の夢によって解明された視霊者の夢』という一風変わった小著を公にしている。スウェーデンの視霊者スウェーデンボリを材料に、霊界の実在と不在の間を揺れ動くみずからの心をあからさまにさらけ出したもので、哲学書というよりは、スウィフトの諸作や、あるいはディドロの『ラモーの甥』などに通じる文学作品の趣が強いユニークな著作である。この心を引き裂く不安の中から、しかし、この書の末尾に付された「人間理性の限界の学」の構想が芽生え、十五年後の『純粋理性批判』に結晶していくことになる。批判哲学の厳しいドイツ学校哲学風の文体からは、なかなか窺い知れぬその背後に隠されたドラマである。
カント『プロレゴーメナ 人倫の形而上学の基礎づけ』土岐邦夫・観山雪陽・野田又夫訳(中公クラシックス)
この数年、明治オカルト史や実話怪談への関心をひとつの読書の軸にした身として、心霊の文脈にカントが乗ってくるのかー、とうきうきする。おそらく、心霊文脈で読むなら『純粋理性批判』は、カントが心霊を純粋理性が導く間違った推論としてばっさり否定するものとしてあるのではないか。あるいは、物自体において留保するみたいな読み方もなしではないのかな。わからないが、素人のやくざな読み方の糸口がひとつ見つかった。街で本屋に駆け込み、講談社学術文庫の『視霊者の夢』を買う。ついでに比較用に岩波の『プロレゴメナ』も一緒にレジへ。
昼を食べながら『プロレゴメナ』の序文を読む。二冊比較しながら読んでみて、岩波のほうが読み易いな、と思う。メインはこっちだな。そのうえで、謎な箇所を中公版の訳を参照していくとかなり読めそうな手応えがある。序文では、たしかに『純粋理性批判』は読みにくいよ、でもちゃんと読めてない輩にてきとうに腐されるのはまじムカつく、そういうやつらを終わらせるためにこそ書いたんだよ、というような話がなされており、楽しい。読みにくいのは、それだけ前例のない凄いものを書こうとしたからなんだ、と繰り返すことでどんどん上がるハードル。格好いい。悪口の婉曲表現の冴えわたりも好み。
夕方、休憩がてらまた本屋に寄って、シラスの人文書イベントで言及のあった『カントの道徳的人間学』も買う。あとこれはカントではないが、紀伊国屋じんぶん大賞関連で気になっていた『耳のために書く』も購う。本は、迷ったら買う。迷った時点で、どうせいつかは買うことになるからだ。年末年始の物欲爆発をだいたい本を買うことに転化していった結果、今月のクレカの引き落とし額がお小遣い五ヶ月ぶんだったのだが、きょうまた一ヶ月ぶん買った。計算上はむこう半年買い物はできないことになる。真面目に読んでいけば数年はかかるので、かなりお得だということだ。
時間をかけてちまちま取り組む読書を生活に据えたく、プルーストを読み返そうかとも考えたけれど、カントにしようかなという気分が高まってきている。今年は半隠居だ、というのはもう日記に書いたっけか。外部からの新規情報はなるべく人づてに聞くだけに留め、カントを読もう。プルーストを読む生活のころは、ガラケーだった。なんならカントの日を設け、その日はiPhoneを封印するのもいいかもしれない。
帰宅の連絡をすると、おやつがあるよ、と返事がある。なにかな、と楽しみだった。それはココナッツの実の繰り抜いたやつをそのまま器にした豪勢なココナッツプリンで、池袋で買ってきたとのこと。うひょー。口当たりが軽く、ミルキーながらするするといけて飽きがこない。ペロリと完食。奥さんはトンカチなどの工具を取り出して実を割ってくれたので、白い果肉部分もきれいに剥がして食べる。こりゃ無人島でも生き延びられるわ、という感じの満足感。おやつのあと、さらに夕食。