2025.01.18

目薬とハンドクリームとリップクリームは、何個あってもいい。いちいち探すよりもあらゆる場所に常備。

だらだらSNS眺める時間をばっさりなくしてみた結果、それが本を読む(主にカント)のとポッドキャスト聞く(主に「大久保佳代子とらぶぶらLOVE」)のとに替わってきている感がある。カントの概説をするポッドキャストは意外とない。哲学講義こそ音声で欲しい。YouTubeは課金しないとバックグラウンド再生が煩雑なのが不便。音声だけでいい。「大久保佳代子とらぶぶらLOVE」は、「フリムジ」という番組で名前を知り、この前の「文化系トークラジオLife」の振り返り回でも言及されていたのをきっかけに聞き始めたばかりなのだけれど、下世話な話をちょうどいい上品なテクスチャーでやりきるところがいい。内容はいくらどぎつくてもいい。それをどのようなテイストで提供するかということこそ肝腎だ。実話怪談のような非俗な話を高踏な屁理屈で煙に巻く『視霊者の夢』のカントのキッチュさも、似たようなものだ。巻末の解説を三浦雅士が書いていて、そこでの『純粋理性批判』の整理がわかりやすかったので、ざっと読書メモをとる。それが以下。墨括弧内は日常的使用とは異なる独自の用語を示す。

  • 認識の外側:【物自体】←これを人が【現象】として認識する。
  • 認識の内訳:【現象】→【感覚】が判断抜きに受容、認識する。この時点では整序できていないカオス→【悟性】が概念を駆使して仕分け、点検、判断→【理性】が理念や理想を用いて推論・推理し、行動の指針を示唆。
  • 【感覚】を【悟性】がチェックし(=知)、【悟性】を【理性】がチェックする(=信)
  • 経験に基づき、はたらく【悟性】に対し、【理性】は経験を必ずしも必要としない。超越論的(=経験によらない)【理性】のことを【純粋理性】と呼ぶ。【純粋理性】が扱うのは、超越論的仮象である。仮象すなわち「見せかけ=外観=イリュージョン」。
    • ※『哲学史入門』を参照:経験的の対義語である超越論的であることじたいはよかったり悪かったりする。カントは超越論的な思考が有効でありうる範囲を定めようとしている。【超越的】というのは内在的の対義語で、これは悪口。こちらは超越論的な水準で考えたことを経験的な事実と同じように独断してしまうようなことを指す。
    • 超越論的のふたつの位相
      • ①経験そのものを可能にしているものを論じる(可能性の水準)
      • ②経験できないような世界について論じる(不可能な水準)→超越論的仮象はこっち
  • 西洋形而上学とは、知の体系のふりをして、その実「信」にかかわる営為である。
  • 理性とは、知ではなく信にかかわるものなのだとして、知から理性を分離する試みが『純粋理性批判』である。(cf. 三浦雅士「批評家の夢」)

読書メモを日記にするさいは、きちんとリニアな記述へと変換すべきかとも思いつつ、日記なんだから生のままでよいんじゃないかと考え直し、そのまま載せておく。メモを他人が読んでどこまで読解可能なのかは疑問だけれど、これはわりと可読性の高い部類のメモではないか。つまり、単純化が足りていない。要素ごとでなくベタ書きしてしまっている。

夜は那覇から届いた加工肉で祭り。黒パンにポトフ、ザワークラウトも用意してもらって、ソーセージパーティー。スーパーで買ってきたスパークリングワインも一本開けちゃう。ごきげん。寝る前は『破墓』見る。欲張り定食のような映画。韓国の娯楽大作における日本というのは、だいたいヨーロッパのB級映画におけるナチスドイツの扱いと同じレイヤーに置かれている。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。