六時起き。出勤前の『ロマン』が終わっちゃって、次の朝どうしようかな、と決めかねつつ、今朝は『労働者』。しかしこれは時間とってがっつり進めたいな。
労働者は、資本によって用いられる人間化された生産手段であり、またそれはマルクスも指摘しているところである。だが、その側面だけでは労資関係は持続されない。どこか歪んだ認識の持ち主を除けば、自分が他者の目的のために道具化・手段化されているという事実を毎瞬間ごとに自覚させられて平気でいられる人間はおそらくいないだろう。
マルクスが述べているように、「生産様式の変革」、いいかえれば資本による労働・生産の組織化はたしかに、「労働者をゆがめて一つの奇形物にしてしまう」のであるが、だからといって労働者も、ただ従順に「奇形物」になってくれるわけではない。労働者は、「奇形物」としての自己の姿と直面しないためにも、反照的仮想、つまり小資産家・小経営者としての自己像に拘泥せずにはいられない。このような傾向が徐々に社会的意識・観念として一般化されるにつれて、労働や労働力につきまとうイデオロギーは、疑う余地のない現実として認識されるようになる。そこから能力主義(ルビ:メリトクラシー)といった単なる社会的通念も一つの時代精神を形成するに至る。
海大汎『労働者』(以文社) p.78
労働者は労働力という商品を資本家に販売する「労働力屋さん」なのだというのが、一般的なマルクス理解であるが、海大汎はこれに、いや、労働力って商品じゃなくない?とマジレスをかます。そりゃそうなのだ。労働者と資本は、同床異夢的に、夢、自己実現、社会貢献、創造などといった〈イデオロギー〉を共有し、従属と支配の〈毎瞬間ごとに自覚させられて平気でいられ〉ないような共依存関係を隠蔽している。しかしじっさい、労働などというものがそのようなきらきらしたものであるはずがないのだ。それは人の生命力を、資本の増殖の手段として簒奪されるものでしかない。もちろん、だからといってやめればいいというほど単純なものではなく、この事実を糊塗する〈反照的仮想〉としてのイデオロギーは、資本主義社会において通念として〈一つの時代精神を形成〉しているのだから、嘘だからといって、無効であるというわけではないのである。
夕方まで労働。駅ビルの本屋で『正反対な君と僕』の最終巻をやっと帰る。嬉しくて帰り道で読んじゃう。漫画を読みながら住宅街を歩いて涙ぐむやばいやつ。
帰宅してソファで本を読んでいるとルドンが膝に乗ってきて、前脚を胸に押し付けて顎を下から掬い上げるように頭突きしてくる。いつまでも何度でも擦り付けてくるので可笑しくて、インカメラでビデオを撮ると、すぐに鼻をムズムズさせてくしゃみをする。人の顔の目の前で、盛大に鼻水を飛び散らかしながら。メガネから口元にかけて飛沫が飛んで、あんまりだ。笑いがとまらない。手で拭って、猫の背中で拭く。撮れた動画を奥さんに送る。膝で猫がぽかぽかしているから、あまり読めずに寝落ちる。やばい、と場所を変えても、また猫に乗られ、ぽかぽかで、寝てしまう。
奥さんが帰ってきて一緒にスーパーへ。雨降ってるというので面倒だったけれど、出ると雪。わあ、と二人ではしゃぐ。ぼたぼたと大粒で積もりそう。しこたま買い込んで、しかし夕食は出来合の惣菜で済ます。すこし酒も飲む。『メサイア』シリーズの映画、『深紅の章』を見ながら食べる。順番前後したけれど『極夜』のほうがよかったな。
