なんか、服とか髪とかぜんぶやってもらって大変身みたいなの、あれやってもらいたい。気分を変えたいが、自分で変えるのめんどくさい。
ルドンの寝床であるケージはこのふた月、二階の書斎に設けられて本棚への動線を塞いでいたけれど、いつかは一階に移すつもりだった。暖かくなってきたし、さいきんは平気で一階も歩き回り、窓から外を眺めるのもお気に入りの日課になってきている。そろそろいいだろうと話していた。蕪とゆかりのパスタでブランチを摂って、作業開始。まずはケージを解体していく。ルドンは何をするんだと抗議の声をあげるが、じっさい文句を言っていたのかはわからない。平気で解体中のケージに入ってくるから危ない。せめて怖がってどいてて。組み立ては非常に大変だった記憶があるけれど、持ち運べる程度に解体するのは簡単で、一階に運び込み、再び組み立て直すのもすぐに済んだ。組み立ての最中にもルドンはケージに入ろうとする。まだだめ!と慌てる。お騒がせしたお詫びにおやつをあげる。もうすでに、食事と睡眠のスペースが一階に移ったことを平然と受け容れているように見える。ただ、いつもこうして何かを変えた後はげたりしているので、しばらく注意が必要。ケージからも窓が見えるから、じぶんだけの居場所で外を眺めるのは楽しいだろう。まだ寒いかもだけど。窓からずっと満開の梅を見ている。お茶飲んで落ち着く。
奥さんが作り置きに取り掛かるあいだ、僕は二階の掃除。窓を開けて換気しながら、ケージの下に凝り固まった汚れをぬぐい取り、ついでにソファもどかして拭き掃除、カーペットの猫砂を掃除機で吸い込んでから、毛取りでベージュ色のもふもふを塊でこそげとっていく。それから仕上げに掃除機をかけて、ひといきつく。十六時に家出る。片道二時間の移動。『労働者』を読む。
有史以来、労働する人間をいかに包摂し組織し管理するかは、奴隷制(主人-奴隷)や封建制(領王-農奴)、専制国家(君主・官僚-臣民)などを問わず、いわゆる支配階級の存続・繁栄に直結する問題であった。そこで、労働する人間は、圧倒的な力の優位への屈服を余儀なくされる。しかし、資本主義社会ではそうはいかない。その労働・生産過程は、政治的論理にではなく、経済的論理によって再編されるからである。そうなると、今度は労働する人間に対する包摂・組織・管理などのいわば経営活動は、人格的強制性によってではなく、非人格的合理性によってなされることになる。労働する人間が人格的隷属から解放されえたのは、そのためである。
これは一見、労働自体が政治(外的強制)の問題から経済(合理的選択)の問題に一変したかのような錯覚を引き起こす。だが、それは、マルクスが的確に指摘しているように、「個々の雇い主が絶えず替わることによって、また契約という擬制によって、維持される」、「賃金労働者の独立という外観」にすぎない。資本主義社会においては、労働する人間に対する包摂方式は決してそれ以前の社会体制のそれとは相容れないが、包摂された存在が多かれ少なかれ包摂する存在の存続・繁栄に奉仕し、またその限りにおいてそれ自身(やその家族)のライフを保障されるという側面——いわば生の他律性——では、それ以前の社会体制とさほど変わりはないといわざるをえない。
海大汎『労働者』(以文社) p.119-120
賃労働は奴隷労働のように包摂する側から全人格的な支配を被るということはない。しかしそれは、資本‐労働者というヒエラルキーがないことを意味しないし、両者の非対称、後者のライフ——生存、生計、生活——が前者への奉仕の見返りとして条件付の保証を与えられているに過ぎない状況は変わらずある。旧来の全人格的な支配被支配関係にないということは、依然として非対称性は存在するにもかかわらず、被支配者である賃労働者は、自発的に資本への従属関係へと参入していくことを構造的に強いられていることになる。われわれは、自ら望み、自らの合理的判断に基づいて、〈包摂する存在の存続・繁栄に奉仕〉するのだ。やりがいとか、意義とか、美意識みたいなものを錯覚して、労働力の売買というフラットな欺瞞を維持している。うげげー!
経堂ついて二十分歩く。「現像」という民家でホラーを上演する演劇作品シリーズの二作目「空洞 世田谷区桜上水 03.2025」を見て、アフタートークをするという用事。まっさらな状態で何かを見て、即座に何かしゃべるというのはおそろしいことだ。見ている最中、何を話せばいいのか考えていては楽しめないし、かといって、漫然と見ているだけでは何も話せないだろう。観客として不純にならざるをえない。などといいつつ、ふつうに面白く見た。黒沢清の諸作品のような、丁寧な段取りと工夫が満載で気持ちがよい仕上がり。ホラーだから気持ちは悪いのだが。けっこう露骨な『CURE』の参照なども面白い。前作「現像」は映像でしか見ていないけれど、近年のフェイクドキュメンタリーの成果をけっこう素直に引用していて、好ましかった。そもそも会場がまじの家なのですごい。平屋で、声や足音がよく響くから、客席としてある居間と、主要なアクトエリアとしてある和室で完結しない。演者が観客の目を逃れて歩き回る廊下、キッチン、庭などが、それぞれの場所でそれぞれの気配として効果をあげる、そのための装置として家が機能していた。そのはたらきはもはや演者のそれにちかい。アフタートークはとくに司会もいなかったので好き勝手喋った。誰が喜ぶんだろうなこれ、とは思う。『r4ンb-^、m「^』を四冊持参していて、卯ちりさんや稲垣さんが買ってくださったからよかった。
また二時間かけて帰宅。途中まで稲垣さんたちと一緒だったので楽しかった。また『労働者』読む。帰宅して、肉うどんをつくって、NEW JAPAN CUP の辻EVIL戦を見てはしゃぐ。それから録音。謎に調子に乗って日付を超える。それからお風呂で、寝るのは二時過ぎになってしまった。愚か愚か。あまりに愚か。今週はけっこう絶え間なく、ほぼ毎日外出しなければならなそうだからつらかろう。
