2025.03.09

なんか、服とか髪とかぜんぶやってもらって大変身みたいなの、あれやってもらいたい。気分を変えたいが、自分で変えるのめんどくさい。

ルドンの寝床であるケージはこのふた月、二階の書斎に設けられて本棚への動線を塞いでいたけれど、いつかは一階に移すつもりだった。暖かくなってきたし、さいきんは平気で一階も歩き回り、窓から外を眺めるのもお気に入りの日課になってきている。そろそろいいだろうと話していた。蕪とゆかりのパスタでブランチを摂って、作業開始。まずはケージを解体していく。ルドンは何をするんだと抗議の声をあげるが、じっさい文句を言っていたのかはわからない。平気で解体中のケージに入ってくるから危ない。せめて怖がってどいてて。組み立ては非常に大変だった記憶があるけれど、持ち運べる程度に解体するのは簡単で、一階に運び込み、再び組み立て直すのもすぐに済んだ。組み立ての最中にもルドンはケージに入ろうとする。まだだめ!と慌てる。お騒がせしたお詫びにおやつをあげる。もうすでに、食事と睡眠のスペースが一階に移ったことを平然と受け容れているように見える。ただ、いつもこうして何かを変えた後はげたりしているので、しばらく注意が必要。ケージからも窓が見えるから、じぶんだけの居場所で外を眺めるのは楽しいだろう。まだ寒いかもだけど。窓からずっと満開の梅を見ている。お茶飲んで落ち着く。

奥さんが作り置きに取り掛かるあいだ、僕は二階の掃除。窓を開けて換気しながら、ケージの下に凝り固まった汚れをぬぐい取り、ついでにソファもどかして拭き掃除、カーペットの猫砂を掃除機で吸い込んでから、毛取りでベージュ色のもふもふを塊でこそげとっていく。それから仕上げに掃除機をかけて、ひといきつく。十六時に家出る。片道二時間の移動。『労働者』を読む。

賃労働は奴隷労働のように包摂する側から全人格的な支配を被るということはない。しかしそれは、資本‐労働者というヒエラルキーがないことを意味しないし、両者の非対称、後者のライフ——生存、生計、生活——が前者への奉仕の見返りとして条件付の保証を与えられているに過ぎない状況は変わらずある。旧来の全人格的な支配被支配関係にないということは、依然として非対称性は存在するにもかかわらず、被支配者である賃労働者は、自発的に資本への従属関係へと参入していくことを構造的に強いられていることになる。われわれは、自ら望み、自らの合理的判断に基づいて、〈包摂する存在の存続・繁栄に奉仕〉するのだ。やりがいとか、意義とか、美意識みたいなものを錯覚して、労働力の売買というフラットな欺瞞を維持している。うげげー!

経堂ついて二十分歩く。「現像」という民家でホラーを上演する演劇作品シリーズの二作目「空洞 世田谷区桜上水 03.2025」を見て、アフタートークをするという用事。まっさらな状態で何かを見て、即座に何かしゃべるというのはおそろしいことだ。見ている最中、何を話せばいいのか考えていては楽しめないし、かといって、漫然と見ているだけでは何も話せないだろう。観客として不純にならざるをえない。などといいつつ、ふつうに面白く見た。黒沢清の諸作品のような、丁寧な段取りと工夫が満載で気持ちがよい仕上がり。ホラーだから気持ちは悪いのだが。けっこう露骨な『CURE』の参照なども面白い。前作「現像」は映像でしか見ていないけれど、近年のフェイクドキュメンタリーの成果をけっこう素直に引用していて、好ましかった。そもそも会場がまじの家なのですごい。平屋で、声や足音がよく響くから、客席としてある居間と、主要なアクトエリアとしてある和室で完結しない。演者が観客の目を逃れて歩き回る廊下、キッチン、庭などが、それぞれの場所でそれぞれの気配として効果をあげる、そのための装置として家が機能していた。そのはたらきはもはや演者のそれにちかい。アフタートークはとくに司会もいなかったので好き勝手喋った。誰が喜ぶんだろうなこれ、とは思う。『r4ンb-^、m「^』を四冊持参していて、卯ちりさんや稲垣さんが買ってくださったからよかった。

また二時間かけて帰宅。途中まで稲垣さんたちと一緒だったので楽しかった。また『労働者』読む。帰宅して、肉うどんをつくって、NEW JAPAN CUP の辻EVIL戦を見てはしゃぐ。それから録音。謎に調子に乗って日付を超える。それからお風呂で、寝るのは二時過ぎになってしまった。愚か愚か。あまりに愚か。今週はけっこう絶え間なく、ほぼ毎日外出しなければならなそうだからつらかろう。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。