2021.03.26(2-p.53)

きょうは目先を変えたくて、『「家庭料理」という戦場』をリュックに詰めて家を出る。最高で、本を読めない徒歩の時間などは「働くことの人類学」の小あじのムニエル回を聴き直していた。いちど文字で論を追った後に聴くと印象が全く違う。もともと著書を読んでいた小川さやかさんの回がいちばん面白かったようにいちばん面白く聴いた。最高とかいちばんとか安易に使ってしまうのはなんなんだろう。最高やいちばんの大安売り。べつに売り物ではないのだからどんどん使っていけばいい。

個々人は世界を対象として分析する。このとき自分も世界から受動的に影響を受ける存在という事実を一度括弧に入れて、あたかも客体としての世界の外部から介入するようなものとして自分を想定する。そういう作業を可能にするのは、その基盤に「暮らし」があるからであり、その存在をある程度忘れることができるだけの余裕があるからだ。

睡眠をとり、食事をして、体を休める。起きていれば眠くなり、時間が経てば腹が減り、毎日何度かはトイレにいき、他人が煩わしくなれば自分のスペースにひきこもる。全て受動的だ。避けがたい必要性を充足することができてはじめて私たちは受動性を退け、「分析する私」となる。難民になっても学問は続けられると断言する学者を、私は容易に信用しない。学問は主に暮らしへの埋没を回避できる人々によって営まれてきたし、そうであるからこそ、学問的な知は暮らしを言語化するのに向いていない。
学問的分析が図(figure)であるならば、暮らしは「地」(ground)だ。絵画という表現(図)が、額縁という背景(地)を必要とするように、「分析する私」はその背景としての「暮らす私」に依存する。だから、「暮らし」を「分析」することは極めて難しい。特定の暮らしを前提として展開される知は、その前提自体に矛先を向けると意外な弱さを露呈する。それが依存する特定の暮らし方を相対化できず、ただ倫理的に肯定するに留まるか、あるいは、基底に関わらない枝葉末節を衒学的に言祝ぐだけに終始しかねない。分析対象を「図」として学問的知識を「地」として位置づける通常の分析のあり方が、それが反転しやすい「暮らし」という対象において、しばしば失効してしまうからである。

久保明教『「家庭料理」という戦場 暮らしはデザインできるか?』(コトニ社) p.22-23

ド・セルトーや渡辺拓也『飯場へ』などが好きなのは、ここでいう「地」を語ろうと試みながら「図」と「地」のはざまで右往左往するその身振りこそが好きなのであって、だから僕はこの本もすごく好きだろう。

僕は就職する頃からどこか会社に参与観察に出かけるような気持ちがあって、グレーバーの『ブルシット・ジョブ』も現代社会というものを異化し人類学的分析を加えた本だと思うし、とにかく現在の自分のいる場所だからと言ってそこに呪術も精霊もないと考える方がおかしいのであって、僕らが自明視しているものの中には随分と変なモノが多い。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員。プルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、「家」の別のやり方を模索するZINE『ZINE アカミミ』などを制作。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。