2021.03.27(2-p.53)

いまは23時30分を少しすぎたところ。久しぶりの長距離移動ですっかり疲れた。なんか電車の騒がしさがきつくて、これは宣言解除と関係があるのだろうか、それとも春だから、それともノイズキャンセリングイヤホンを外して無防備な状態で乗る電車が久しぶりだったから?

そういうわけで岩浪音響監督のご実家こと立川シネマシティで三話を見届けてきた。僕はもう大満足で、さいきんは春だから毎晩のように死を考えるが、死というのはなによりも自意識の消失が怖いわけで、そういう意味ではボケてしまったりなにかしらの脳の損壊それ自体がすでに恐怖なのであり徹底して個人的なことだというか、個人の経験の無化そのものというか、経験する個人そのものがなくなるということで、そうやってなくなっていく個人からしてみればだから後世に名を残すとかそんなことではどうにもならない。入眠は自己の消失の練習のようなものだといつも思うし、そう思うとおっかなくて眠れなくなる。その恐怖の強烈さたるや、自意識の発生そのものを後悔するしかないもので、毎晩のようにしまったなあと思うのだけど、こういう作品にわくわくできて、しかもまだこれからも生き延びていれば続きが見られるというのはたしかに生というのはうっかり始まってしまったからには続行するに値すると大袈裟でなく思えるのだから面白い作品というのはそれだけで救いだ。僕は昨年の初夏、同じa studioで劇場版を観て、終電で帰るのはしんどいから取ってあった宿の隣のローソンでワゴンに投げ売られていたラバーストラップの箱を買ったら中は西隊長だった、その日おなじ立川の電器屋でスマホを買ったからその日にFGO をダウンロードして、だからマスターの名前は「西」だ。僕のカルデアには知波単魂が宿っている。

日中に読み終えた家庭料理の久保明教はコクヨ野外学習センターのポッドキャストでこういう話をしていた。人類学者は南米に出向いてそこの人々のもとでフィールドワークをしたわけだけれど、そこで見出したのは人間関係にだけ自閉していない諸関係の網目であった。そこでは人々はジャガーや植物の精霊と共にあるというか、そういう人間以外の存在とも関係をもって自己や社会というのを規定していた。そういう人間の外部とも関係を持ちその外部も含めての自己規定を行う「ジャガー-人間」みたいなものは、しかし現代社会にも当たり前にあることであって、例えば現代人は機械がなければ生活もままならないという意味では機械と協業しながら日々を営む「機械-人間」であり、「ジャガー-人間」の目から見れば現代人というのはより高度に洗練された文明などではなく、自分達とは異質な精霊たちと関係を持つ人々のように映るだろう。これはほとんど要約のふりをして聴きながら僕の考えたことが多分に含まれているから鵜呑みにせずに原典をあたってほしい。

個人というのはだから生きている間のしかも脳が正常に機能している間だけあるような自意識にとどまるモノではなく、諸関係の網目の中でつねに外部と内部の境界線を書き換え、相互に変容していくものであるという考え方は、自意識そのものにとっては特に救いではないが、ある。僕という存在のごく微小な範囲ではあるが、わざわざくたびれて電車に揺られてでも最高の音響環境で出遭いたいという欲望を喚起させる作品の存在は、たしかに僕という存在を規定している。要するに、僕はガルパンおじさん、いやガルパン-人間になった。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。