お茶の時間に奥さんとおしゃべりしていて、僕はつねに文章に感傷が入り込むことが恥ずかしくてならない。というか、なにか文章表現を行おうとする場合、気をつけていないと、すぐになにか悲劇的な雰囲気を帯びてしまうものであり、そうならないように、できるだけ呑気に、軽薄な方へと書きぶりを調整してきたつもりだ。いまでもベタに感傷的な文章は、なんだかつまらないものに感じてしまう。そのような話をしたのだけれど、これは二十年ほど前までの小説シーンにだけあった、時代特有の状況論に引っ張られたままなのかもしれないとも喋った。インターネットで原理上文章の発表が開かれて以降、むしろ軽薄でドライな文字の置き方というのが主流になってきて、むしろベタに感傷をやるような文章が、相対的にマシなものとして評価されるようになってきている、というか普通に「上手な文章」として評価されるような現状がもしかしたらあって、僕はそれを捉え損なっているのかも、というような話をした。
そもそも僕のこのような文章観は多分に保坂和志の影響下にあり、あれは二〇〇三年の本、三章の「テーマの代わりに「ルール」を作る」という節だった。
デビュー作「プレーンソング」は、もしも私にお金があれば、自分のまわりに友達を住まわせたり、映画を撮っている友達に資金が提供できる、ということをある日ふと思いつき、それで書きはじめた小説だった。
ただ、それだけでは小説にはならないかもしれないと思い、私はテーマの代わりに「ルール」を設定することにした。なぜ「ルール」なのかというと、私がもともと理科系的な発想をする人間だったからだと思う。たとえば数学は、小学生の算数から高等数学まですべてルールがあり、どんな難解な数学でも、そのルールに従って構築されている。小説もそれと同じょうに つくることができると思った。
そこで、「ブレーンソング」では次のようなルールを設定した。
ひとつは、「悲しいことは起きない話にする」ということ。
理由は「ネガティブなもの(事件、心理……など)を以て文学」という風潮が嫌だったからだ。しかし、書いていく過程で、物事を叙述する文章というものがほとんど自動的に不幸の予感(または気配)を呼び寄せることに気づいた。
たとえば「『じゃあ、また』と言って、彼は歩いていった」と書くだけで、小説の中では「じゃあ、また」が二度と来ないように感じられてしまう。小説にはそういうネガティブな”磁場”のようなものがあるらしいことが、書くにつれて強く強くわかってきたので、「悲しいことが起きない」どころか「悲しいことが起きそうな気配すら感じさせないように文章を書く」という風に、このルールはどんどん”先鋭化”していくことになった。
だって「悲しいことの予感(ないし気配)」を書いてしまったら、読む側はそれを感じてしまうことになるわけだから、「ネガティブなものを以て文学」という風潮の外に出たことにならない。この意味で、回想する感傷的な小説はひじょうに書きやすい。小説にはネガティブな磁場が充満しているから、何を書いても簡単にさまになってしまうのだ。
私はその場を徹底的に拒絶する闘いをやったわけだが、その結果は皮肉なことに、ほとんどの読者にはただ「平板」とか「眠たい感じ」としか受け取られなかった(まあしかし、異質なものを持ち込むというのはそういうことだから仕方ない)。保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』(草思社)p.64-65
ここでも書かれているように、保坂の態度は「ネガティブなものを以て文学」という風潮を前提とし、そのカウンターとしてとられている。つまり、大多数は「ネガティブなものを以て文学」だと素朴に信じていたということで、これは今もってそう変わらないような気もする。しかし、ここで語られているのはあくまで小説の話で、先に書いたような「なにか文章表現を行おうとする場合、気をつけていないと、すぐになにか悲劇的な雰囲気を帯びてしまう」というように、文章表現全般にまで拡張するのは明らかにやりすぎだ。なぜそんなことをしたのか。
おそらく、これを初めて読んだ中学生の僕にとって、文章とはほとんど小説と同義だったからだ。なにかを文章にすることは、容易に悲劇の予感を帯びてしまう営みなのだと無茶な理解したのだろう。それで、そういうのは嫌だな、と受け取ったのだと思う。社会化され始める自意識が育まれる頃に、糸井重里と保坂和志と京極夏彦を愛読していた影響はとても大きい。かれらがカウンターとして選び取った戦術を、僕は素朴に思考のプリセットとして体得していったわけだ。
話が逸れた。保坂がこれをかいた時期にだって、コラムだとか、コピーライティングのように、「悲しいことが起きそうな気配すら感じさせないように文章を書く」がふつうになされていた領域はいくらでもあっただろう。今だって、たとえばインターネット上のテキスト表現は、デイリーポータルZのような、「悲しいことが起きそうな気配すら感じさせないように文章を書く」方向での発展にこそ、目覚ましいものがあるともいえる。それでも、それだからこそ、なのかもしれないが、大勢に読まれる文章の現場が書籍からインターネットへと移行した現在は、エッセイや小説のような「オーセンティック」な文章表現が、むしろサブやカウンターのようなものとして受容される環境であり、そこにおいて「ネガティブなものを以て文学」という素朴な感覚が当時以上に無批判に看過されてしまっている気もしないでもない。というか、いつの世にも、深刻なもの、真剣なもの、重たいもの、シリアスなものをありがたがってしまう風潮はあるだろう。
と、ここまで書きかけた日記をもとに録音をしたら、この二年くらいの停滞感を晴らすようなおしゃべりになった。冷静に考えて、奥さんは、僕にとって、世界でいちばん格好いい人だと思う。聡明でユーモラス、軽々とハッピーなヒーローでありアイドルであるが、そんなことはなく生身の人間なのが最高。
