次の水曜のさめない社交に向けてなんか書くかーと思って、note にnoteっぽいのを書いた。それで疲れたので今日はそれを載せるだけにしよう。あ、ガンの『スーパーマン』を見て、よかった。人に親切にする、それがパンクでしょ、というシーンでうるっときて、避難する老人が大事そうに抱える水槽の中に亀がいることに気がついたときだばだば泣いた。この映画から受け取った善性への意思みたいなものを引き継いで書かれたもののようにも思えてくる。
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社交という言葉にあまりいいイメージはないかもしれない。
たとえば、こんなことがあった。退勤後の飲み屋で、尊敬する先輩にぽろっとこぼされた言葉。おれは仕事は一生懸命やってきた、でも酒は飲めないし煙草も好きではない、ゴルフもやらない、だからここ止まりだったんだ。
かれはこの時点で定年間近で、たいへん頭がよく、上にも下にも気も遣え、情に厚い、たいへん優秀なひとだった。でも、かれが愚直にオフィスで働き続けているあいだに、酒宴をひらいて上司をおだてたり、ゴルフで各社の役員にとりいったり、そういうふうに社交をうまくやっていくひとたちのほうが、昇進だったり、有利な転職だったり、いわゆる成功をつかんでいった。それでも、まあおれにはこうとしかできなかった、と苦笑する先輩を前に、なんて理不尽な世の中だろう、と思ったものだ。けっきょく調子のいい、コミュニケーションが得意なひとたちのネットワーキングで大事なことが決まってしまう。
酒でも煙草でもゴルフでも構わない。すでに権威ある誰かと、なにかしらの形で親しくなり、その人間関係から利益を得る。これはべつに会社員としてだけでなく、あらゆる場所でありふれている。
先輩と別れて、電車に揺られながら、なお燻るモヤモヤを収めようと聴き始めた音楽も、そこまで文化的感度の高くない僕の耳にまで辿り着くことができたのは、才能だとか、切実さだとか、そういうものよりもずっとずっと、「業界」内でのネットワークでどのようなポジションをとれたかとか、誰それとのコネクションだとか、そういう「社交」の成果だといっていいだろう。
つまんね。そう思って、このエピソードを不特定多数の誰かに向けて書きたくなる。たとえば、note に。無料でアカウントが作れて、投稿ができる。うまくすればお金にもなるかもしれない。すごいね!
現在のテック長者たちの体たらくを見ていると信じられないことかもしれないが、かつてインターネットは、名もなきものたちが自由に表現し、活動できる場所として夢見られていた。従来のオールドメディアのように、編集者やディレクターのような「選ぶ側」と、作者や出演者のような「選ばれる側」がはっきりと分かれた世界では、前者が強い力を持ち、かれらに選ばれないものは声をあげることもままならない。それが、いまではどうだ。誰でもその気になれば、ウェブ上になんだって発表できる。旧来の権威なんてくそくらえ。社交? そんな公開性のない閉鎖的なサークルに閉じこもるダサい権威からのお墨付きなんかいらないね。これからは個人が自由にやりたいようにやりたいことをやるんだ。インターネットは、そのような反権威として登場したし、それは素朴な実力主義と、単純な反骨精神が勃興する時代の気分ともよく合っていた。
でも、かつてTシャツにジーンズ姿で現れた創業者たちは、三十年くらい経ったいま、なんというか、ドルガバみたいなマッチョな服を見せびらかしたり、億を超える金額の腕時計を巻き付けたり、ついにはチェンソーを振り回しながらナチ式の敬礼までしてみせて、かつて自分たちが反抗し、挑発していたスーツ姿のお堅い権威のほうがまだマシだったと思えるほど、すっごく嫌~な感じの権力を誇示したがるようにまで成れ果てた。どうやら、かれらにとって反権威というのは、自らが権力を手にするための宣伝文句にすぎなかったみたいだ。
劇作家・評論家の山崎正和は、政治には権力と権威の二種類があるとした。権力は縦型の組織をつくることで、パワーを上層部が独占し、トップダウンでものごとを動かしていく。一方で権威とは、かっちりとした組織をつくらず、ただ求心力を発揮するものだ。人の心をときめかせ、自分も参加したいと思わせる権威のチャームは横断的で、ときには国境をも超える。おやおや、先にインターネットは反権威的だったって話をしたけれど、こうしてみると、むしろ権威ってかつて夢見たインターネットみたいじゃない?
大勢のひとたちにとって、組織の上澄みだけが恩恵をこうむる権力よりは、理論上誰でも参加できる権威のゲームのほうが、ずっと民主的なはずなのだけれど、なぜだか権力欲に取りつかれたひとたちの、反権威的な態度に心躍らせ支持してしまいがち。人類の問題は、権力と権威を混同しがちだってこと。権力を欲しがるひとたちは、いまある権力を批判しているような顔で、じっさいは権威だけを破壊して回っていて、権力はよだれがでるほど欲しがってる。そうやって、便利な買い物や、昔の同級生の「いいね!」をもたらしてくれた男どもは、いまでは赤いキャップの下品な権力者の近くでにやけているわけだ。
〈(…)権力が国民に強制力を行使するのと同様に、権威もまたたんに魅力を振り撒くだけでなく、それに従う人びとに一種の規制力を及ぼすことは疑いない。権力の武器が法と制度であり、それを施行する実力機関であるとすれば、いうまでもなく権威の力は礼儀と作法であり、相互に批評しあう人びとの評判である。まさに法と制度に違反する者が罰を受けるように、礼儀と作法を破る者は人まえで恥を蒙る〉。これは山崎の『社交する人間』という本からの引用だ。そう、山崎は権威の居場所は社交にあったのだと言っている。そして、この本が書かれた二〇年以上前から、とっくに社交の現場は消滅しかかっていたらしい。みんな権威が揶揄われたり、コケにされるのを見るのが好きだからね。
でも、反権威的なポーズをとって、実際はより弱くて困っている人を追い詰めるような雑なフェイク情報を公言し、差別感情を煽って選挙活動とするようなひとたち相手に、「恥を知れ」と言うことさえ空しいような状況は、やっぱり嫌だ。上品であることをよしとし、下品を恥じる、そのような権威の磁場は、きれいさっぱりなくしてしまっていいものではないんじゃないかと思うのだ。
先輩には悪いけれど、酒や煙草やゴルフに比喩的に託された、人と人との組織的ではない交流ってやつを、ないがしろにしてはいけないのだ。僕たちは、もっと社交したほうがいい。顔も知らない誰かの悪意に怯えて、道行くひとたちへの信頼をもてず、コンビニの前で仲間たちと楽しむひとたちを勝手に恐怖し、思想の合わないあいつへ酷い言葉を投げつけるようになっちゃいけない。そうじゃなく、直接会って、目の前のひとに親切にしてみよう。まずは小さく、狭いものにしかならないだろう。個人でできることなんてそんなにない。それでも、いつか、まったく仲良くなれそうにもない、知りもしないそのひとと、隣り合って飲み物をのみ、盛り上がりはしなくとも居心地が悪いわけでもない、お互いに気遣いに満ちたいい時間を一緒に過ごせるように、しょぼくて不完全でも続けていけたらと思っている。
二〇二五年七月二十三日。水曜日の夜に、高田馬場のバーでお待ちしています。ここから始める。酒も煙草もゴルフも、好きじゃなくて大丈夫。まだここには権威もない。権力にはさっぱり繋がりそうにもない場所で、いちから社交をやってみよう。
