2025.09.09

昨日くらいから徐々に体力が戻ってきたようで、猛然とあらゆる連絡や調整を進めている。今週の金曜日はさめない社交の二回目だな、と思い、初回も書いたしなんか書いとくか、とnote にラフな文章を配置する。めったに触らないnote の編集画面がまったく肌に合わなくなってきているのを感じるけれど、面倒なのでiPhoneで一筆書きでやる。

シャーク鮫さんとはじめて会ったのは今年の三月。かれが出演する公開収録のイベントを見に東中野に出かけて行った日のことだった。もともとポッドキャスト番組「心の砂地#」が好きでよく聴いていて、声のメディアの魔力によって、だんだんと、この人と話してみたいな、という気分が盛り上がっていたのだった。ミーハーな気持ちでお店に着いて、収録ブースのなかにかれを見つけた。収録終わり、へどもどと自己紹介して、おおー、と笑いかけられたとき、仲良くなりたいなあ、と思った。それで、飲み行きましょう、という言葉を字義通りに受け取って、さっそく来月の約束をとりつけたはずだ。

四月に御徒町にある好きなお店のカウンター席で飲みながら、探り探りにお互いの見聞きしてきたものの話をする。シャーク鮫さんがトイレに立った時、厨房のスタッフから、お話し聞こえてましたけどめっちゃサブカルが好きなんですね、と声をかけられて思わず苦笑いで返した。それはいま、けっこうな悪口にもなりうるよ。

声だけで親しんでいた人の姿格好を見るという経験は、印象の不可逆な変容をともなう。聴覚情報から構成されたイマジナリーな「シャーク鮫くん」というフィクションが、目の前の具体的な「シャーク鮫さん」という個人になる。さらに直接的な人間関係を結ぶというのは、より一層あともどりできないほどの変化がある。これ以降、僕はもうポッドキャストの語りをこの姿形や、じっさいに直接交わしたあれこれの言葉の記憶と癒着させることなく聴くことはできないんだな、という寂しさがないではなかった。この寂しさは、インターネットや本を介して、その人の書く文字だけで好いていたどなたかと対面するときにも感じるものだ。

でも、寂しさ以上に、おおむねいつだってろくでもない現在を共時的に生きる誰かと、お互いにやっていることにリスペクトをもちつつ、これまで受け取ってきたもの、これから手渡していきたいものについて、どうしようもなく固有の体を隣り合わせて真剣に話し合えるということの喜びのほうがずっと大きい。二軒目に向かう道中、信号待ちをしながら、なんか一日店長みたいな感じで、オンラインでコンテンツを介してゆるく繋がっているひとたちとリアルで会える場所を誂えて待ち構えていたい、そんなことを言い始めたのだと思う。ああ、いいですね、みたいな応えが返ってきたはずだ。とりあえず相手の言葉を額面通りに受け取る僕は、じゃあやろう、と思い込んで、すでにお世話になっていた豆腐さんに連絡を取った。高田馬場で豆腐さんが営んでいるバーHANABIで、人がふらっと集まっていい感じにおしゃべりできる感じのなんかをやりたいんですが、という非常に具体的な提案に、豆腐さんからも、いいですね、と返信があった。そうやってだんだんコンセプトが立ち上がっていって、「さめない社交」という名前ができた。

せいぜい六人くらいかな~と思っていた七月の「さめない社交」初回は、想定以上の大盛況。直接お話ができなかった人も何人もいたし、終盤は僕自身が隅っこの方で呆然としていたほどだけれど、それがとても嬉しかった。ひとが集まっておしゃべりしている。それを眺めているだけで愉快だ。

僕は、かなり素朴に、自分の主催したパーティーで自分が一番のけものになってる状態が理想だ。僕がひとりで楽しいよりも、みんなが楽しい方がすてきに決まってるので。

イベントに出演するときや、ポッドキャストをやるときなんかは過剰なくらいに饒舌なくせに、ふだんの場所ではただにこにこと佇んでいる方が好きだ。ここは自分が話すところ、という設定があるところでは張り切ってしゃべるけれど、そうでないところでは、ひとがしゃべっているのを聞く方がいい。これは、自分の話に興味があるひとなんていないだろうという前提があるからだけれど、卑屈とかではなく、むしろ利己的な判断で、自分のしゃべることは自分にとって既知のことがらになるので、そもそも自分で自分のしゃべることに興味がもてないのだ。ひとの話すことは、たとえ話題が既知のものであったとしても、そこに至る文脈や、なされる解釈は未知の出来事で、そうしたものに触発されてようやく自分のなかから目新しいものが現れてくる。それが楽しい。

もともとそういう性分だから、七月の「さめない社交」では無理に話に割って入ることもせず、とりあえず自分は隅っこでにこにこして、必要そうだったら来てくれたひと同士をやんわり繋ぐ。そうやっていい時間といい場所を耕すようにして過ごしていた。たぶん、僕がちゃんとぐいぐい行くことで達成される誰かの楽しさもあるはずで、そういう気遣いがあることも理屈ではわかるんだけど、どうも納得はできてない気がする。でも、あとから思い返すと、もし僕に会いに来てくれたのに僕と話しそびれた人がいたら申し訳ないことだな、とようやく気がついた。そういう可能性もなくはない。なのでこれは身勝手なお願いなのだけれど、今週の金曜日の夜に来てくださる方で、僕とおしゃべりしたいという方は、ぜひおしゃべりしたいですと教えてください。そうでない限り、僕よりもずっと面白そうですてきそうな誰かとの仲介に徹して、また隅っこに戻りたがってしまうだろうから。ちなみに、とくに誰かとしゃべりたいわけではないけれど、誰かが楽しそうにしているところにただ居るのが好きという僕と似たひとがいたら、そういう人にも来て欲しい。おのおの隅っこで嬉しく黙っていましょう。

七月の二十三時過ぎ。みんなが帰ったあとのHANABIで豆腐さんと三人でねぎらいの言葉をかけあったあと、高田馬場の駅までシャーク鮫さんと一緒に歩いた。ふたりともくたびれたのもあって一言もしゃべらず、駅に着いて、それぞれの家路に分かれていくときも、じゃあまた、とぽつりと呟いておしまいだ。べつにそれでいいのだ。社交だからって、無理に話すことはない。おしゃべりが弾まなくたって大丈夫。ただ居てもいい。そういう感じの時間にできたらと思っている。誰もしゃべらないけど居心地が悪くない、そういう数秒、数分、数時間があるような場所。それが実現できるまでは、続けていくつもりだ。

今週の金曜日、来れる人は来てみてね。今回は難しいという人も、またやるからいつか会いましょう。それで、ぼんやりとした楽しさや期待を共有しつつ、しゃべったりしゃべらなかったりしよう。誰でもあり誰でもない、ほかならぬあなたを待っています。

今回は純情篇ということで、ナンパっぽいのを書いてみた。前回書いたものは、自分を知らない誰かに向けて書いたから、今回は少数の僕を知っている誰かに宛てた。そのせいで、ずいぶんと散漫かつ読みづらいものになってしまったような気もする。まあ、それはいつもか。昨日も今日も朝から晩まで汗びっちょりの暑さで、不愉快極まりない。夏の人間は臭いから、なるべく家から出ないで済むようにしてほしい。びしょびしょになるような人間を外出させるな。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。