2025.09.08

この社会でマジョリティ男性として加齢していくと、比喩として「父に似てくる」こととどう付き合うかがでかい課題になってくる。

履かされてる下駄のせいで暮らし向きはよくなるし、この数年来「生きづらさ」的なものを実感することもほとんどない。似合いたくもなかった社会に似合ってしまう。そうすると、社会の不正へ声を上げる人らに対し、「それほど悪いところでもないよ」と諭したくなるような気持ちがもたげてくる。結局、自分にあったマイノリティ性というのは若さくらいしかなかったわけだが、気持ちだけ若いままのつもりでいるといつまでもマイノリティ的気分だけ残存し、そのうえで逆張りのノリで現状維持を謳い始める。邪悪だ。

この邪悪さをいかに遠ざけておけるか。まず、お前の暮らしが楽になってきたことと、この社会が改善されたかどうかには、相関関係がないと知ることだ。自分がどうか、ではなくそもそも——お前ははじめから困った立場などではなかった——現状の制度下で困らされている人が増えているか減っているかで測るほうがいいだろう。いま、自分が困っていないのであればなおさら、総量としての困りごとへ関心を向け、行動するべきだ。とはいえ、私財を投げ打って何かをするというほど金持ちなわけでもないし、日夜労働に追われているからできることも少ないのも事実だ。困ってないぶんの余裕を、どう知らない誰かのために使えるか。

まじでこの、生活者としてはそこまで悪くない暮らし向きではあるが、必要な人に寝床を提供するとか、なにかしらの手続きの代行をするとか、そこまでのことをやれるだけのリソースはない、みたいな、この社会の多数派が、社会の不正の最小化のためにできる具体的な行為ってなんなんだろう。聖人じゃないから自己犠牲とかは限度がある。とはいえ、なにもしたくないわけじゃない。余裕のある個人が自らの生活を保守したうえで、知らない誰かの困難を減らしていくためにできることをする。そういう状態をつくるには、どうするのがいいんだろうな。寄付とかなんだろうか。

このような「贅沢」な悩みは、家計の大半を調達してはいるものの、家庭内でのケアに関してはほとんど関係できず、しかるべき批判をすることも受け取ることもしないまま、ものわかりのいい顔だけして実際なにも行動していない無能の「父」の姿と重なる。「子」という当事者であったころは、こういう「父」がいちばん卑怯だと思っていたはずなんだけれど、いまじゃあこのザマ。「父」も、どうしていいんだかわかんないんだよなあ、と一定の共感さえ持ててしまう。でも、やっぱそんなのは嫌だ。嫌なんだけど、現状は無能な「父」として、ただ困ったように微笑んで、視線を新聞に落としている。

いつまでもやんちゃ気分の幼稚さを残したままの「父」も邪悪だし、大人であることは自覚しつつもその責務の果たし方を見出せない「父」の無能さも卑怯だ。じゃあ、どうする?

これは、マジョリティの声にも耳を傾けるべきというような話ではまったくない。多数派は自分の“声”なんて届けなくていい——言わないでも察してもらえちゃう——ので、黙って「弱きを助け強きを挫く」を実践すればいいんだ、というような「男伊達」の気風を、弱毒化されたものとしていかに再建するか。それが大事なのではないか、という話だ。次代の高倉健を真剣に考え出さなければならない。いま高倉健するとはどういうことか。『ダンダダン』じゃ足りていない。ちゃんと高倉健しなきゃ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。